この前、川口浩や香川京子がでていた映画もみたが……。主人公は没落地主?の末裔で、貧乏のなかなんとか中学に通っている。そのためか、労働運動や、妾になる女の子に対して一定のシンパシーを持っているようだが、一方、お金持ちの女の子と相思相愛、友人の妹や、妾になる女の子からも一方的に好かれている。しかし彼は、そういう地上の具体的な出来事にあんまり興味はなく、なにかよくわからん大きいものに闘いを挑もうとしている印象である。映画をみていても、途中から「ハテ?」という感じになってくる。
原作の島田清次郎「地上」は、大学院の時にだいたい読んだままほとんど内容を忘れていた。島田は自称天才で、「地上」で大ベストセラーを飛ばしたあとも、よけいに自称天才だったのでみんなに嫌われて統合失調症ということにされ、30そこそこで死んでしまった自称天才wであった。私がはじめに「地上」を読んだときの印象は……この作品は確か大正8年出版が最初だから、「或る女」とか「友情」とかと一緒である、ということで、ああ、この
意味不明な糞生意気なかんじは有島や武者小路とある種一緒じゃないか、という感じであった。島田は天才すなわち特殊だったからベストセラーを飛ばしたのではない。おそらく、凡庸であることを強さで塗りつぶす能力が長けていたからだ。すなわち、自称天才はだいたい世の中の空気を読みすぎるのがあとになってみりゃ問題だ。体力的にそんな勢いは続かなくなるからだ。本の序文は、作者が精神病院に送られた後、大正13年に、菊池寛が書いたものである。島田の傲岸さあまっての没落そして精神病院行きはまあ当然だろうけれども、我々もこれを教訓にして気をつけにゃならんぜ、と言っている。例によって具体的なことを言わない菊池であるが、大正13年、確かに気をつける必要があったのだ。菊池は島田とは対照的に──凡庸であることを弱さで塗りつぶす態度でもって生きていこうとしたのではなかろうか。しかし、これも空気を読もうとしていることに変わりはない。
今度ちゃんと読み返して考えようと思うが、世の中が変化するときには、こういう猪突猛進の自称天才が現れるように思う。で、あとの世の中、だいたいろくなことにならないのだ。芥川龍之介の死なんてもういろいろ変化したあとじゃん、と思うね……。