★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

大島渚対アレックス・ロス

2011-03-08 23:39:36 | 音楽


買ったままになっていた大島渚監督の『飼育』を観る。大江健三郎の原作とはだいぶ違うが、これはこれで明確な作品だと思った。私の思いこみなんだろうが、大島監督の作品は、画面の中に視線を抜くというか、視線を休ませる空間がない。だからすごく疲れる。視線を抜く空間というのは、こちら側とつながっている。だから映画の中を生きても生きなくても、どちらでもいいか、と安心できる。しかし大島監督の場合は、それを許さない。私はこういう姿勢を嫌いではない。こうでもしないと我々はものを考え始めないのではないかと思うから。

右側は、アメリカで出版当時から話題になったらしいアレックス・ロスの著作。日本でも翻訳されて新聞などに書評が載っていた。私も20世紀の音楽の本と聞くとむずむずとしてそそくさと買いにいってしまったわい。で、研究者おとくいの斜め読み攻撃で、ざっとよんでみた。私はこの本の長所については、意外にも本のカバーに印刷されていた、リチャード・タラスキンとかビョーク(!)の感想が当たっていると思った。ビョーク曰く「誰でも音楽への情熱に、また火がつくことだろう」と。ショスタコーヴィチの交響曲や「ヴォツェック」についての歴史的な説明よりも、音楽そのものの描写の巧さがこの本の巧さではなかろうか。政治的な、人間的な状況のなかにおける──つまり作曲家もただの人間ということである──作曲行為が描かれるときも、この本を読む者の脳裏には音楽が鳴りはじめるのだ。(……といっても、私の場合は、研究者の性なのか、「こいつ、俺の知らない曲を知ってやがる」と思った時には、鳴ってないかも……。)当たり前だが、このアレックスという人物、相当音楽がすきなのだ(笑)

まあ、このように思うのは、このような俯瞰的・文化史的な「叙述」(というより精神的な姿勢)に我々があまり違和感を持たないほど慣れてしまっているためもあろう。著者は68年生まれで、国は違えど私もほとんど同世代だ(笑)。こういう俯瞰(私は「収集」だとおもうけども)というか、作品に淫せずに一種の「芸術物語」を語ってしまうのは、我々にはあんまり抵抗がない姿勢だ。いや、むしろ「普通で楽」なのではないだろうか。例によって偉そうに私は決意するのだが、こういう「普通で楽」を突破する必要があるのだ。もう文化史的叙述がはやり出した当初からすでにこの課題ははっきりしていると思う。しかし……、讀賣新聞に書かれていたK山氏の書評では、案の定、「革新や正統性なんて観念を括弧に入れる。すべては相対化される。」とか、「芸術史家に要求されるのも哲学者の偏屈さでなくジャーナリストの臨機応変だ。複眼的史眼でありのままを紡ぐ。われわれはようやくまっとうな音楽史を手にした。」とか言われていたが、政治家じゃあるまいし大げさなんだよ。「正統性」を否定しておきながら「まっとうな音楽史」とかいってしまうセンスが、気持ちは理解できても全く了解不能であるが、まあいいや。偏屈さや革新・正統さなどを適当にからかってみるのが、この国のよくある偏屈なアカデミシャンの姿ではないか。だいたい一般的にジャーナリズムが臨機応変な訳ないだろう。複眼て、私たちは昆虫じゃないぜ。こんな夢想をこの本の著者がしているとは思えないんだけどなあ……。単純に音楽学の積み重ねの凄さをこの本からは感じるぞ……。アレックス・ロスが音楽史の研究の末たどりついたことを、音楽の相対化だと感じてしまう我々の文化が問題だ。