★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

直ちに大丈夫

2011-03-19 21:01:14 | 思想


今年の流行語大賞の最有力候補はたぶん「大丈夫」と「直ちに健康に影響のあるものではない」だな……。

被災者が得たい情報は、大丈夫かどうかではない。十分既に、大丈夫じゃないからだ。ましてや政府や保安院(原子力安全委員会はどこ行った?)を信用したいわけではない。そんなものはもともとないし、信用するべきでもない。問題は、どう大丈夫かそうでないかという可能性の幅なのである。可能性の幅を検討しアナウンスすることは、某官庁や某専門家の言ったことをそのまま復唱するわけにはいかず、言う方もそれを解釈する我々も勉強していなければならないから、確かに困難な道であるが、今回のような疑心暗鬼の連鎖をさけるためにはやっぱり必要である気がする。頻繁に行われる記者会見が、2ちゃんねる実況板やツイッターに対する燃料投下みたいな役割をしてしまっている──というより、会見そのものが実況板と化しているのはどうもね……。必要なのは、政府に対する信用の回復や信用の全面否定ではなくて、自分たちで自分たちを何とかするための懐疑的な視点である。といっても、所謂リテラシー能力とそれはちょっとちがうような気がするんだよなあ。リテラシーを強調する人って、だいたい予言者じみた言い方が好きだからなあ。権力をクサすにしても、おれはあいつよりもすごい、という言い方になりがちである。そんな状態では、我々は永遠に、予言と可能性を区別できる人間に成熟しないのではあるまいか。



今日の月。

赤い月などを象徴表現として使うのも、もう止めた方がいいかもな……幼稚な文学的発想がこの国ではまだまだ強力だから……

疎開と宗教とお友達

2011-03-19 04:27:22 | 思想


被災者を疎開させるという試みがあるようで、これは当然の施策ともいえるけれど、戦時中の疎開とはややちがう。都会から田舎への疎開とは限らないからである。今回の場合は、文字通りふるさとを捨てる人々が多くいるはずである。無論、ふるさとを捨てると言っても、立身出世のためのものではない。私はつい、『聖書』や『コーラン』に描かれている宗教的な出来事を想起するが、今回の日本ではどうであろうか。下は『コーラン』(井筒俊彦訳)の一節。

「信仰を受け容れ、家郷を棄て、己が財産も生命も擲ってアッラーの道に奮闘して来た人々、それから(この移住者たちに)避難所と援助とを惜しまなかった(メディナの)人々、この両方はお互いに仲間同士。だか信仰だけは受け容れたものの、家郷を棄てるまでには至らなかった人々、こういう人々にたいしては、汝らとしては、先方が遷って来るまでは、何も友好的にする義務はない。しかし先方が汝らに、宗教上のことで助けを求めて来たならば、やはり助けてやる義務はある。だかこの場合でも汝らとの間に協定のある集団を敵にすることはならぬ。アッラーは汝らのしていることを全部見通し給う。」

……文学について考える者というのは、つねに最悪の場合を思い浮かべる習慣があるけれど、わたしなど、上のようなせりふが頭に浮かんでしまうのである。とはいえ、上記のような興奮状態を良くも悪くも抑圧するのが我々の社会──しかも宗教的なそれ──ではなかろうか。もうね、総理大臣は「みんなでがんばろう~」ばっかり言ってるし、ブロガーたちは「お祈り申し上げます」ばかり書くし、何かあると黙祷はきっちりするし、結構みんな自然に手を合わせたりしている。これは全く自明のことではない。危機的な状況だと多くの人が言い始めると、我々はとりあえず行為の上では十分宗教的人間である。しかしながら、私は、宗教はやっぱり究極においては敵がある場合に生成してくるのではないかと思っている。いまの日本だってそうだろう。表面上の祈りと、為政者や何やらに対する罵倒の応酬は根本的にはどこかでつながっているはずである。いまはやりのスピリチュアルの人達とか、批評家としての僧たちだって、案外憎む相手がいるものだ。だからこそ人の心を解放もするし駆り立てもするのではなかろうか。このことはよく考えておく必要があると私は思う。

……それにしても、アメリカの「Operation Tomodachi」というネーミングは……。略して「O.Tomodachi」=お友達か?いつから占領者ではなく「同盟国」になったんだよというのは一応措いておいて、いきなり友達ですか。「20世紀少年」や「闖入者」を読んでないのかっ。武者小路の「友情」でもいいや。日本人は友達こそ信用ならんと思っている節があるのだよ。というか、お願い、原発何とかして……。