昨日は一仕事終えてから家に帰り睡魔氏に襲われ気絶。
眼が覚めたので、この前買った、ツァラ『ムッシュー・アンチピリンの宣言──ダダ宣言集』の光文社古典新訳文庫版を読み始める。訳者は塚原史氏。ときどき眼が覚める(←もう覚めてたけどな)ほどのせりふがあるので、ぐいぐいと読む。じっくり読んでいても、基本的に意味が分からないので同じことだっ。
塚原氏の一連の前衛芸術に関する文章には、もちろんぜんぶ読んでる訳じゃないが、昔からすごく世話になっている。ただ、あまり好きな文章家ではない。「あまりダダっぽくない(マジメな)マエガキ」という本書の前書きもあまり好きではない。題名がまずまさにダダっぽくない。面白くもない。「ダダ、といっても『ウルトラマン』に登場する三面怪獣ではない。」という文から始まるのだが、これも面白くない。実際に、その三面怪獣ダダや四次元怪獣ブルトンと塚原氏の文章を比べてみればよい。「ユーモアの挫折」に書かれていることだが、ユーモアという言葉にこめたい意味をよりよく表すために、ダダという言葉の導入を試みてきたのだ、というツァラの発言をよくよく考えてみる必要があるのではなかろうか。
「DADAはおれたちの強烈さだ。理由もなく持ち上げるのは、銃剣それにドイツの赤ん坊のスマトラ頭というわけ。ダダはお上品なスリッパもはかず、交わらない平行線もいらない人生だ。統一ってやつには反対でもあり、賛成でもあり。でも、未来には断固として反対する。」
こういう1916年の文章から、要領のいい学者なら、前衛芸術の全てはここから始まる(きりっ)とか、一本論文を書いてしまうところである。私はそんな甲斐性もないけど、前衛芸術を論じる学者の保守性と出世主義にほとほと飽き飽きしているのも事実だ。私もそんなものと全く無縁であったとは言えないから自己嫌悪もある。体感に過ぎないが、最近の知的エリート(というより受験エリートだが……)の、「他人と同じような、しかも少し違うことをやって、要するに要領よく成功を収めて威張れりゃまあいいか。」という態度は甚だしいものがある。といっても、そういう連中を批判しても仕方がない。どうせそうでないやつと一緒で、遅かれ早かれ死ぬ。もっと根本的な問題がある。我々は、もともとそのけはかなりあったとはいえ、インターネットの発達で、ますます収集家、というより「所有は自由である」という思想の信奉者になっている。無論これはプルードンの言葉であるが、彼は「所収は盗みである」とも言っていたわけである。ここに「経済学と共産主義との間をうろつく」姿をみて批判したのがマルクスである。我々はいつのまにかまたプルードン的うろつきの旅に出たのではなかろうか。マルクスにとってみればそれは果てしなく続くだけの旅にみえたのであろう。
ここ数日話題になっている、試験中にネットに答えを聞いていたとかいうカンニング事件も、「所有は自由である」という思想の表現の気がする。誰かが答えられる問題ならば、答えるのは誰でもよいではないか、とりあえず私が答えを所有し、うまい汁を吸いますけど……。こんな感じか?これを試験監督を強化することによって防止しようとするのは、あれだ、所有をめぐるごたごたをKGBが監視する某国家みたいなもんだ。
フランスの大学入試ではないが、我々の国の大学は、「知的なものは私有財産とすべきか?」このぐらいの問題を出してもよいのではないか。そうすれば、ヤホー知恵袋やツーちゃんねるで知恵を出し合ってるうちに試験時間終了だ!というのは、冗談だが、本気でもある。ヤホー知恵袋に答えられたり、翻訳ソフトで答えられるレベルの問題を出しているからいけないということもあるのだよ。人集めのために問題を簡単にし続けているからこういうことになったのかもしれないよ。センター試験対策によって根本的な訓練を怠った我々の世代の頭脳がまもなく天下を握る訳だが、もういろいろな意味でオワッとるで、たぶん。
ツァラも「自己窃盗狂」という意味ありげな言葉を使っている。危険を避ける者、貧しい者は、自己からしか盗めないというのだ。ここには虚無に面した人間の、懐かしい姿があるように、今日の私には思われた。
で、私はいそいそと森嶋通夫の本を読み始めた。第Ⅰ部の労働価値論に入ったところでいきなり分からなくなった。