★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

強いられた人間と仏陀

2011-03-10 05:49:08 | 思想


野上彌生子の「海神丸」が映画化されたとき、そこには「人間」という題名がつけられていた。どうもこの映画はあまりしっくりいかぬ。原作には明らかに人間の存在感があるのに、映画には案外ないのだ。映画では、漂流して飢餓に襲われた男女二人が同乗していた少年を撲殺するが、罪の意識かなにかで物語の最後に発狂、自殺してしまう。これが、なぜか「たぶん、それは現実にはない」と思わせてしまうのである。「人間」ではなく「ヒューマニズム」に引っぱられた映画だろう……

右は、ちょっと読んでみたくて、つい読んでしまったもの。これも、当世流行のグローバリズムの一種というやつか、──仏陀も「人間」でした、妻に浮気されて女嫌いになってしまいました、故に仏教には禁欲の掟が……という、まるで、新興宗教の教祖やヒーローの自我の起源をすべて彼の中学校時代のトラウマにもとめてしまうような三流ハリウッド映画まがいのやり方であろうか?……という先入観で読み始めたのだが、案外説得された(笑)ただ、実際に妙なオーラを持った人間がやってきたときに、われわれは、こいつにもルサンチマンやトラウマがある、と思っただけではどうにもならない。私は芥川龍之介「尼提」に描かれているような、一旦弟子にしようと思ったら超人的な勢いでその人間を追い込んでいく怖ろしい仏陀の方が、リアリティがある。人間的な現実というのは、個人の内面といより、強いられる内面にあるからだ。上の「人間」という映画に対しても私は同じ感想を持った。