★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

音楽の天才と文学の自称天才

2011-03-07 23:16:17 | 文学


かるみょなーらとヴェニス・バロック・オーケストラでヴィヴァルディを聴く。ちょっと前に話題になったCDである。私は文学を研究のために読んでいることもあってか、文学作品に天才を感じることはほとんどなくなってしまったが……、音楽にはしょっちゅう天才を感じる。このCDの演奏とか、実演で聴いたら、演奏が終わっても忘我のあまり、楽屋に飛び込んでかるみょなーら氏に求婚するとか、錯乱してパイなんかを投げつけてしまいそうである。(……というのは冗談である。)一方、演奏者の方はどうかといえば──私はプロになれなかったからどうも推測しかできないんだけれども──演奏が上手くいったときの、冷ややかでかつわき上がる法悦感は半端ではない。まさに全身が天を駆けるのである。これは中学生の吹奏楽部員でも経験できることだ。違うとはいわさんぜ、楽器をやったことのある人間で「俺は天才だ!世界は俺のものっ!」と思ったことのない人間は、あまりいないはずである。そして、一部の例外を除いて、あとで自分の演奏の録音テープを聴いて絶望し「誰かウジ虫の俺を殺して下さい」と思うのである。(あ、これは私が基本的に性善説を持っているが故の見解ね)

「天才」といえば、前に記事に書いた自称天才・島田清次郎がどうも気になるので、杉森久英の『天才と狂人の間』という島田伝を読んでみた。直木賞受賞のこの本はとてもすらすら読めるようにできていたので、すぐ読み終えた。題名にどうも迷いが見られるようだ。この本の内容が言っているのは、島田は天才でも狂人でもなかっただろう……よくわからんが、という事態だからである。「間」ではない。前の記事でも述べたように、私は、島田のような自称「天才」がでてくるのは、ニーチェやスティルナー、ドストエフスキーが読まれ、白樺派や奇蹟派、宗教文学や堺利彦などがごちゃっと存在している状況からは不可避的なのだと思う。「天才」は一種の思想だったのだから。故に私は、「地上」五部作を、作品の出来はともかく文学思潮史上かなり重要な作品だと考えているが、それはいつかなにかの論文で触れてみたい……。この作品が、第一部がまあ読めなくもない作品なのに、第二部以降うまくいかなくなった理由も、彼が発狂したからだとは必ずしも言えない。第一部は「さあこれからやってやるぞ」という物語なのだが、詳しくは言わないが、要するに、それ以降──「さて、どうやろう?」においてうまくいかなくなるのは、島田に限ったことじゃないからだ。いわば「地上」は、大正期の「佳人之奇遇」なのだが、その困難は大変なものである。昭和期の左翼やその同調者たちが経験したこともでもあろうし、「旅愁」のような作品にもそれはある。が、その困難に安住することで生じる情緒もある種の日本近代文学を支えてきたわけだ。文壇の人々は、この困難や面倒くささがまがりなりにも踏み越えられる姿を、プロレタリア出身のエネルギーだけはありそうな島田に不気味にみてとったのかもしれない。『文藝春秋』をはじめとする、島田に対する当時のネガティブキャンペーンはそんな危機感の現れかも知れない。

ともあれ、杉森氏の評伝を信じる限り、島田はやはりろくでもないやつだったらしい。どうもね、我々の社会においては、凡庸さに対して刃向かう人が、──確かに少し核心をついたことを行うにしても──、凡庸な人よりも実際子供じみた幼稚さ「しか」持ち合わせていない場合が多すぎるのではなかろうか。