やけくそ映画鑑賞である。「独立愚連隊」。この作品はこんなとこでちょいちょいと評論できるものではない。鑑賞するのは二度目ぐらいだ。はじめは寝っ転がってみていたのだが、次第に机にへばりついて鉛筆をにぎりしめて臨戦態勢になった。ちゃんとしたw文学作品と同様、〈読み〉を行わないと真の姿を現さないと思わせる作品の場合は、こっちも気楽ではない。いまも考えている最中であるが、この作品は、戦争映画をユーモアで解放しているわけでもなければ、西部劇ふうなエンターテイメントでもないと思う。そもそもこの映画は〈戦争〉を描いていないかもしれない。もっと抽象的なものが思考されていると思うのである……。
まあとりあえず、岡本喜八の一連の作品が、戦争が大義とは何の関係もない代物であることを知らしめる効果を持ったことは確かであろう。だからこの作品の場合も、なんだか平和主義に抵触する好戦的な映画だと受け取った人達もいた訳である。軍国主義だけでなく平和主義も大義の一種だから、左も右も抵抗感を覚えるのである。
しかし、それはまだ作品の把握としては不満である。軍隊のなかの独立愚連隊というあり得なさそうな事態をえがくことでなされた逆説的リアリズムといっているだけのような気がするからだ。
私は、この監督のような戦中派の作品に対しては、おそらく、彼らが戦争が終わっても戦争が終わった気がしていないのを忘れないことが重要ではないかと思う。戦争の中で生きること、同調圧力の中で生きること、官僚制的な世界で生きること、といった、なにかの〈中〉で生きることという課題を想起すべきである。抵抗や反戦、リアリズムといった用語は、その〈中〉ではない〈外〉に立ちすぎていると私は思う。映画のなかで、独立愚連隊は、独立していない。
似たようなことであるが、明治維新や敗戦は、その後の発展のフラッシュポイントであったかもしれないが、そこで急激な変化が起こったと考えるのは、〈外〉に立つことである。今回の震災の前と後で何が変わったというのだ。確かに空気は一変したように感じるけれども、以前からあった問題が顕わになったり、それをもみ消そうとしたりしているだけではないか。
ところで、大震災の被災者にする「支援」という言葉が盛んに使われているけれども、教育学部に勤める者として、この「支援」には、やや疑問がある。いま「教育」や「指導」の代わりに「支援」を用いるのはかなり一般化しているようである。教育実習なんかでも学生が「よい支援ができましたね~」とか指導教諭に褒められているのを目にする。赴任当時、私は何を言っているかさえ分からなかった。(今でも分からんが……。)たぶん、教育の最終目的は教えられる側の主体性やニーズに基づくべきなのだから、教育は、訓導ではなく教えられる側の後方支援であるべきという哲学に基づくと考えられる。柔らかく言えば、教育とは、成長の手助けだということであろう。哲学としては分かるし、これまでの教育に関する様々な問題の帰結としても必然的な流れだと思う。ただ、この
震災に関しても、「救援」とか「救済」と言っていた時代より、「支援」する人々がはやめにそこから降りるのではないか、と私は思ってしまう。あたかも日本全体が一つの教室になったかのようである。だとしたら、歴史の必然として(笑)学級崩壊はとめようがない。気分的に私はもう諦めかけているのであるが……。