★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

独立愚連隊は独立せず、支援もされず

2011-03-29 08:50:02 | 思想


やけくそ映画鑑賞である。「独立愚連隊」。この作品はこんなとこでちょいちょいと評論できるものではない。鑑賞するのは二度目ぐらいだ。はじめは寝っ転がってみていたのだが、次第に机にへばりついて鉛筆をにぎりしめて臨戦態勢になった。ちゃんとしたw文学作品と同様、〈読み〉を行わないと真の姿を現さないと思わせる作品の場合は、こっちも気楽ではない。いまも考えている最中であるが、この作品は、戦争映画をユーモアで解放しているわけでもなければ、西部劇ふうなエンターテイメントでもないと思う。そもそもこの映画は〈戦争〉を描いていないかもしれない。もっと抽象的なものが思考されていると思うのである……。

まあとりあえず、岡本喜八の一連の作品が、戦争が大義とは何の関係もない代物であることを知らしめる効果を持ったことは確かであろう。だからこの作品の場合も、なんだか平和主義に抵触する好戦的な映画だと受け取った人達もいた訳である。軍国主義だけでなく平和主義も大義の一種だから、左も右も抵抗感を覚えるのである。

しかし、それはまだ作品の把握としては不満である。軍隊のなかの独立愚連隊というあり得なさそうな事態をえがくことでなされた逆説的リアリズムといっているだけのような気がするからだ。

私は、この監督のような戦中派の作品に対しては、おそらく、彼らが戦争が終わっても戦争が終わった気がしていないのを忘れないことが重要ではないかと思う。戦争の中で生きること、同調圧力の中で生きること、官僚制的な世界で生きること、といった、なにかの〈中〉で生きることという課題を想起すべきである。抵抗や反戦、リアリズムといった用語は、その〈中〉ではない〈外〉に立ちすぎていると私は思う。映画のなかで、独立愚連隊は、独立していない。

似たようなことであるが、明治維新や敗戦は、その後の発展のフラッシュポイントであったかもしれないが、そこで急激な変化が起こったと考えるのは、〈外〉に立つことである。今回の震災の前と後で何が変わったというのだ。確かに空気は一変したように感じるけれども、以前からあった問題が顕わになったり、それをもみ消そうとしたりしているだけではないか。

ところで、大震災の被災者にする「支援」という言葉が盛んに使われているけれども、教育学部に勤める者として、この「支援」には、やや疑問がある。いま「教育」や「指導」の代わりに「支援」を用いるのはかなり一般化しているようである。教育実習なんかでも学生が「よい支援ができましたね~」とか指導教諭に褒められているのを目にする。赴任当時、私は何を言っているかさえ分からなかった。(今でも分からんが……。)たぶん、教育の最終目的は教えられる側の主体性やニーズに基づくべきなのだから、教育は、訓導ではなく教えられる側の後方支援であるべきという哲学に基づくと考えられる。柔らかく言えば、教育とは、成長の手助けだということであろう。哲学としては分かるし、これまでの教育に関する様々な問題の帰結としても必然的な流れだと思う。ただ、この言い換えで発想の転換によって、教育者が子どもの実情に即した教育支援を行えるようになる、と考えるのはよほどの楽天家であろう。「手助け」の専門家だと自覚した人間がどのような能力の過信に陥るか、子どもにそもそも主体性やニーズは「ある」のか、教えることと教えられることに残る絶対的な権力関係の非対称性をどうするのか、などの問題が芋づる式にでてくるのを無視できる神経が教育者にあるとはとうてい思えない。忙しさのなかでそんなことを気にする間もないから、どうでもいいという感じもするのであるが、私が一番気になっているのは、もっと単純なことである。すなわち、「支援」の場合は、いざとなったらしてもしなくてもよいという言い訳が教育者支援者に許されてしまうのではないかということである。「教育」や「指導」の場合は、ある真理のパッケージを子どもに押しつけ終わるまではゲームから降りられない感じがするが、「支援」は、主体性やニーズに基づくから相手が望んでいなければやらなくても良さそうだし、他人に奉仕する意味ではボランティアみたいなもんだから、支援者が苦しくなったら止めてもよい感じがするのだ。私は、どうも教育現場には、このマイナス面が最近顕わな気がする。昔からだと思うが、ボランティア精神につきまとうナルシシズムは非常にやっかいなのだ。しかしこのナルシズムを持っている人間でないと教育現場は過酷すぎて精神的に持たない。だから、どうもそういうタイプが殊更選ばれて現場に送り込まれている気さえする。ところで、「上から目線」とか言われているものは、そのナルシシズムのことだと思う。支援だから「態度」は上からではないのに、「目線」が上からなのだ。この陰険さに人々が反発するのは当然である。しかし、この「上から目線」をやめようというのは、内面の強制だから、やめよと言われた方はこれまた反発する。自分はそんなつもりじゃないのに目線がそうなってしまうのだから、本人も大変だ……。だいたい教育だからある程度上からになってしまうのは必然である。それを消そうというのは、人間の本性を無視した議論である。「支援」が、たちの悪いきれい事になる必然性は確かにあるのである。そうならないために教育者は、ナルシシズムといった邪心を持たないレベルに──すなわち、子どもに近い純粋状態(←この想定があまりにも嘘であることは誰でも知っているが)に帰る必要があると思われるので、教育学部の学生は教育者への自覚を持つに従い、努力して子どもじみていく。

震災に関しても、「救援」とか「救済」と言っていた時代より、「支援」する人々がはやめにそこから降りるのではないか、と私は思ってしまう。あたかも日本全体が一つの教室になったかのようである。だとしたら、歴史の必然として(笑)学級崩壊はとめようがない。気分的に私はもう諦めかけているのであるが……。