吉本隆明の「マチウ書試論」を読み直したのだが、途中で苦しくなって「愛妻物語」を観た。「マチウ書試論」はもう何回も読んでるはずなのに、その都度考えさせられる。が、何を考えさせられているのかはよく分からない。とにかく過去に自分が書いた文章などに対して「ああ駄目だった~」と反省を迫られるのである。機会主義をからかうせりふとして有名な、ハイデガーの発言のパロディ「俺は決心したぞ、何をかはわからんが」をもじって言えば、「俺は反省したぞ、何をかはわからんが」といったところだ。高校3年生の時にはじめてこの文章に触れたとき、グスタフ・アラン・ペッタションの交響曲並みに鬱にさせられたのは確かである。大学に入って田川健三の吉本批判などを読んで、その鬱が解消されたかと言えば、全くそうではなく、ますます自分のお気楽さ加減を反省させられた。一時期の吉本人気の理由についてはいろいろ理屈をつけられるだろうが、一度吉本からある問題に入ったりすると、それを論理や資料的な瑕疵を見出して議論を発展していっても却って最初の吉本が不気味に思えて来るというところに、何か原因があるような気がする。要するに、死ぬまで考えなければ、という、インテリの卵にはある種快楽をもたらす感情を、確実に植え付けるものが吉本にはあったのではなかろうか。それは吉本を否定するときのよくあるせりふ──彼のルサンチマンやらコンプレックスの強烈さ──の問題ではない。才能の型として問題にすべきである。
「愛妻物語」──戦前の売れない脚本家とその妻の話。両親の反対を振り切って結婚してくれた妻は、ひたすら夫の成功を祈ってあれこれ立ち働くが貧乏のために結核になる。夫は締め切りが迫ったシナリオと妻の看病をこなすのだが、妻は「ずっとシナリオを書くのよ」と言い残してあっけなく死んでいく。それで夫は一生シナリオを書いていくことを決心する……たぶん。いまどきこんな献身的な妻や夫がいるかっ、と言っても仕方がない。この妻が夫の元を離れないのは、映画産業をバカにする両親への徹底抗戦なのであり、献身を言うならどっちかというと映画への献身なのではなかろうか。その証拠に、夫には、死んだはずの妻の声が鮮明に聞こえてくるのだ。「しっかりがんばってね。苦しいときには笑うといいわ」と。もう彼はシナリオをいやでも止められないだろう。苦しくても笑ってなんとかせい、と言っているのだから(笑)これが新藤兼人の自伝的な物語であり、妻役を後に結婚することになる乙羽信子が演じているのも有名な話だ。が、映画で過去を描ききったつもりだったかもしれない新藤が、またもや妻に先立たれ、そのあともやはりシナリオを書き続けているのも……、なんだかここまで来るとコワイ。同様に、吉本隆明もまだ書き続けている。死ねない理由があるのは分かったとして、やはり能力が続くのがすごいです。