★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

天罰と科学と

2011-03-15 01:40:37 | 文学


ようやく気分が落ち着いてきたが、これからいろいろと大変だろう。某知事などは、「今回は天罰だっ。この際、我欲を洗えっ」とか、つい言ってしまった訳だが、それに対して「天罰とは何事だっ」と言う方も──要するに、みんな興奮しているのである。だいたい何か訳分からないことが起きると、誰かは「天罰だっ」ぐらい口走るものであって、いちいち気にしていても始まらない。(知事が言うなよという感じがするが、それはだから、ほれ石原だから)だいたい、この日本はやく滅びてくんねえかな……と半ば本気で願っている人間だっていつも一定数存在しているのではないか。私が二日前に言ったように、確かに、地震は地震であり、津波は津波である、それ以外のものじゃないだろう。しかし、そんな認識に耐えられない人間もいるのである。坂口安吾は戦争がおわったときに「生きよ墜ちよ」と言ったが、これがなぜか元気の出るせりふなのは、戦争が自然現象ではなく、人間の倫理の問題と結びついていたからである。某知事はもしかしたら、むりやりその「墜ちよ」を言いたいのではないか。「我欲を洗え」とはそういうことだろう(笑)ただ、こういうときにそういう言い方をしても、文学的な発言だと思ってくれる人はなかなかいないのを某知事は理解しているのか。もう自棄なのか?

原発の問題は、さしあたり科学の問題である。気合いや文学やアニメの知識で何とかなる問題ではない。(事故の原因は、必ずしも科学の問題ではないようであるが?先日書いたように科学以外の理由でこうなってしまったに違いあるまい。)

ただ、石原の発言に関しては、まずは文学的に責めないと駄目である。天罰を科学的な発言として考えてもしょうがない。いや、今のSFはそんな傾向があるかもな……

まだ頭がぼうっとしているので、めんどうくさくなってきたが、要するに、科学も中途半端、文学も中途半端だといかんということであろうか。太平洋戦争の時も、科学〈信仰〉と神懸かり精神論が同居していたらしいが、こういうのが最悪の結末を迎えるのだ、たぶん。中国やアメリカも、日本の道徳心やモラルをあんまり褒めないでほしいね。我々は、そんなに変わった人間じゃない、ただの人間だ。