★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

この映画の素晴らしさは蟻えない

2011-03-26 07:18:52 | 映画
やけくそ映画鑑賞である。今日は朝っぱらから「GiAnts」である。

といっても、ジェイムス・ディーンのあれではない。

邦題は、「アース・トゥルーパーズ 地球防衛軍vs巨大蟻軍団」である。もうこの時点で傑作でないことは確実である。監督は誰かと思ったら、デヴィッド・ヒューイである。映画ファンのなかで、この時点で絶望感以外のものを感じるとしたら、B級マニアか、「風と共に去りぬ」は史上最低の映画だと言い切る勇気のあるタイプであろう。知らない人のために言っておく。彼は(これも全く見る必要はないが)「ダイナソー・ファイター カンフーvs巨大恐竜」の脚本を書いた人である。

もう物語の概要を述べる気にすらならないので、次のページなどを観て下さい。

http://kakipyi.fc2web.com/4th/giants.html
http://finalf12.blog82.fc2.com/blog-entry-25.html

先日の「ごくせん」が腐ってもプロの仕事だと分かる作品である。しかし、申し訳ないが、作品の心意気は、こっちの方が上だと思う。「ごくせん」は途中で寝ても意味が分かるが、こっちは一瞬でも寝たら意味が分からない。その代わり最後まで観ても意味が分からない。あ、そうだ、昔、安達何とかという子役が着ぐるみの蜥蜴とおどっている映画があったよね、「ジュラシック・パーク」と同じぐらいの時期に。「七人の侍」と「楢山節考」で日本は映画大国だと勘違いしていた映画好きにとって、やはり日本はヘタレ以外の何物でもないと自覚させられた出来事であったが、その「REX 恐竜物語」(←言うな)よりも「アース・トゥルーパーズ 地球防衛軍vs巨大蟻軍団」(長いので上をコピペしました)の方が遙かに面白いことは確かなのである。ヒューマニズムに溢れてるし。「REX 恐竜物語」(コピペしました)で、心が優しくなったとか泣いたとか言う人間が確実に冷血漢であるのと対照的である。

ゲバルト時代の帰趨

2011-03-26 02:55:50 | 思想


アーノンクールのモーツアルトを聴きながら、中野正夫氏の『ゲバルト時代』を一気に読む。日大闘争の時に、デモ行進していたら地面が波打った、という描写など、とても躍動的である。あとは、民×他、セクトのリーダーの馬鹿さ加減であるとか、性的な好き嫌いで決まる派閥だとか、──要するに、観念的新左翼の「実態」を暴露する本である。中野氏の世代は、ちょうど60年代の終わりに青春真っ盛りで、浅間山荘事件になだれ込んでいく運動を経験している。私はこの時期に生まれているので、当時の雰囲気は知らないが、左翼文学の研究者(笑)として、とても興味深い時期だと思っている。私は中野氏の著作をとても面白いと思うし、どんどん暴露してくれ、と思う。まだまだ、いま偉そうなことを言っている元ヘタレ運動家の過去を暴いて頂きたい。

とはいえ、中野氏の著作自体の意味を考えると、そう事は簡単ではないと思う。私が思うに、当時の学生が不満を持った様々な封建的制度はそこここにあったし、運動も起こる必然性もあったのだが、七十年代の運動は以前の運動の「超克」を目指す「心的」運動である側面が強いと思う。そうすると運動自体の根拠が理屈以外に必要なのだ。しかも、この時期のマルクス主義の議論は、良くも悪くも学生がすぐさま理解できるほど簡単ではなくなっていた。吉本隆明の共同幻想論や岩田弘の世界資本主義論とか……、猛烈に勉強しなくては、あるいは勉強しても理解は難しいのだ。「共産党宣言」や「ドイツイデオロギー」とともに一気に彼らはそれらの著作を押しつけられた訳で、高校生や大学生はもはや頭がパンクしてしまう。そうするとどうなるか。彼らの運動は、実際のところ、「理論的にはよくわからんけど、なんか権威には腹が立つ」とか、「権力の犬を殲滅せよ」とか、そういう感情的には当然の、しかも幼稚なところに根拠が過剰に置かれることになり、それでも理論に対するコンプレックスはあるから、口が達者でオーラだけがあるタイプ(今でもいるよな、こういうやつ。学会で何やらしゃべりまくってるようなやつ。)に吸引されていく。――で、セクトの発生であるが、それはほとんど動物的な何かである。中野氏の描写しているのは、結局そういうことではなかろうか。私は、どうしてこの時期の運動が、自らが「運動」体──つまりは動物的なそれである──であること自体に意義を見出していったのか疑問であった。無論、今に続く大学行政のひどさや戦争や労働運動への複雑感情や「一度は民主主義を自分たちで」という意識など、様々な必然性というものはあったであろうが――、中野氏の展開する観念論批判、すなわち所詮人間は動物にすぎなかった、といった書きぶりは、この時期の運動の内実を暴露するだけでなく、そもそも運動の原動力でもあったのではないかと思うのだ。比喩的にいえば、モラルの底も、観念の底も抜けているのが、この時期の運動の密かなエンジンではないか。中野氏が反省するまでもなく、はじめからそうなのではないか。その意味で、中野氏はまだ運動の内部にいる。

私の師匠の世代には、こうした底が抜けた感覚を有している学者が多くいるように思う。だから非常に、底まで戻って考えようとする誠実な学者がいる一方で、学者なのに、上記の知的コンプレックスから、「学問」に「学生」や「大衆」を対立させたがるタイプもいる。たぶん「改革」オタクや「わかりやすさ」オタクがそれである。彼らが手段を選ばずその「改革」とやらを行った結果、ある種の大学や学会は知的な雰囲気がどんどん失われてしまった気がする。素人や市民(のクレーム)を無条件に恐れるので、たまたま権力にありつくと、安全運転するために検閲が大好きになってしまう。こういうタイプは大して追い込まれていなくても手段を選ばずというやり方に慣れており、まったく何をするか分からないので、若者は過剰に防衛的に社交辞令的になってしまった。もはや、真理の追究より権力を優先してるんだからしょうがない。――いや、まったくしょうがなくない。ここまで書いてきて思ったが、やはりその運動至上主義には、権力志向のやつがはじめからかなり混じっていたと考えなければならない。人間、変節は簡単だが容易には転向できないものである。

私は、オタクの方々の発散する「動物的な感じ」も、かかる事情と関係があると思う。彼らは運動が禁止されているから、デカダンスしてるだけなのだ。そして、改革を夢みながら、観念と自分の肉体が限りなく遊離している感覚を有するから、何もできない。彼らが、言行一致のきっかけを掴んで一気に街頭に流れることはありうることである。

ところで、アーノンクールは真の改革者だったか?