★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「ごくせん」大研究

2011-03-25 04:37:47 | 映画


昨日は卒業式でした。
これで四年間のいやな思い出を忘れることができる。なかったことにできる。良く悪くも過去の賞味期限は短いと考えるべきだ。そう思えるのが若さの特権だ。

……というわけで、教員になるかも知れない諸君に、この前観た糞映画教育映画「ごくせん THE MOVIE」の感想を述べて縁切りのはなむけの言葉としたい。

「ごくせん」は、ある極道の娘(ヤンクミ)が、ある底辺高校の教員となって、生徒たちを言葉と暴力によって「自分の教え子」として訓導して行く話である。仲間由紀恵と生瀬勝久でもっている映画で、のみならず、生徒たちに関しても、俳優の育ちの良さがでてしまっており、どう考えても本当のアホやワルに見えないところがいかん。ダルビッシュとか星野監督を生徒役にした方がよかった。以下は、私が一生懸命考えた、この映画からの教訓である。

一、ヤンクミはなぜ、最終的に悪ガキたちを統治できるのか。それは生徒たちがいうように「こんなにまっすぐにぶつかってきてくれる先公はいねえ」からではない。生徒たちより喧嘩が圧倒的に強く、ヤクザの娘のボス猿として成功したからだということを無視してはならぬ。これが分からないのは悪ガキたちの頭が悪いからである。最終的に問題なのは、教員が生徒の実力をどれだけ上回っているか、だ。我々の世界が、金八先生の人情話とは根本的に違う世界になっていることを忘れてはならぬ。

一、ヤンクミはなぜ、最終的に悪ガキたちを統治できるのか。ひとりひとりを「支援」(笑)しているからでは必ずしもない。映画の中で「おまえら」という呼びかけを何回ヤンクミがしているか知っているか?俺も知らんが、かなり多い。ひとりひとりが違うということにこだわらない方がよいときもある。「おまえら」という呼びかけの方が心に響くときだってあるのだ。

一、ヤンクミはなぜ、最終的に悪ガキたちを統治できるのか。この物語はフィクションである。

一、ヤンクミは高校の教員採用試験に受かっているどうみてもエリートである。この物語はフィクションである。

……卒業生のみなさんに多くの幸がありますように。その前に私に幸がありますように。