★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

大地震発生2

2011-03-13 03:51:03 | 日記


ようやく知り合いなどの安否が確認され気が付いてみると、昨日からテレビで地震の番組を観る以外にほとんど何もしていなかったと気づく。

第二次大戦がおわった時、俄然やる気が出てきて活き活きと活動し出す人間がいたかと思うと、放心し続けてしまう人間がいたと聞く。それぞれの人間の境遇や戦時下における考え方の違いなどによって様々な理由があったのだろう。が、私の勘だと、そういった理由とは関係なく、活動的になる人間と呆然としてしまう人間がいると思う。私はどうも後者のようだ。

テレビに映し出される、津波によって粉砕され廃墟と化した街をみていると「我々は数々の災害や空襲や原爆を乗り越えてきた、なんとかなる」といった文句が頭を通り過ぎたが、これは何か間違っている。このときの「我々」には私は含まれていないからだ。のみならず、確かに私がその「乗り越えてきた」人々の一員であると感じられるのである。ここには確かに「乗り越えられる」という妙な自信とある種の甘さが潜んでおり、それを私が共有しているからである。我々の文化の場合、地震や津波は、ただ自然そのものであって、それ以外ではない。だから、「我々」がしっかりすればよし、というあまり逡巡がない安心感の如きものがあるのだ。もし、これが津波ではなく人間(或いは人間の顔をした神でもいいが……)による破壊であったとしたら、「我々」がしっかりすれば、では済まない。我々は相手が人間の場合は、直面した現実は自然ではなく、いかにも不可解な何物かであると感じるから頭の中で観念的に様々な処理をしなくては精神的に蘇生できない。アメリカの新聞などでは「DEATH WAVE」とか「この世の地獄」などという表現がされていたみたいだけれど、いまのところ我々はこういう表現すら観念的に思われるのではなかろうか。一つには、私が、決定的なものを目撃している被災者そのものではない人間だからであろう、だから却って被災者はそういう紋切り型ともとれる表現を、あるいはするかも知れない。名付け得ぬものを何とか表現しなくてはならないから。ただ半傍観者にとってそれはどうも観念的に感じられる。このような余計なことを考えぬ純粋な状態は、我々がいつも勤勉に復興を成し遂げる原動力となっているかも知れない。

……ただ、私は文学をやってるせいか、なんなのか、観念的ななにかが必要となくなった世界に対しては呆然とするしかない、そういう種類の人間のように思われた。

……とはいえ、原発は大丈夫なのか……?だから、こんな地震の巣の国で原発はやめとけと。原発に関するいろいろな議論をなかったことにしてきたつけが回ってきたぞ。10年前、塾で小中学生あいてに社会科の授業してたころ、こんな発言があった。すなわち、「んな、とんでもなくものすごい地震が来たら何やっても駄目だっぺ」と。この偏差値30の女の子の言うことも当たっているではないか。全く専門外なのでわからないが、研究者の端くれとして言わせていただけば、「想定外」の事態だったというよくある言い訳は、だいたい嘘であることが多い。心ある研究者は想定はしているのである。ただ、いろいろな学問以外の理由があって「想定内」というものが成立してしまう。学問の世界では往々にしてそういうことが起こる。最近は社会に対する説明責任があるとか言って、ますます「想定内」の空文句と本音が乖離している研究者が増える可能性すらあると私は思う。かかる危惧は、私が教育学部にいるためか、そういう乖離をものともせずに社会で通用することばかり考える学者をあちこちで目にしているから……であろうか?

ともかく、悪夢から覚めた(というか本当は覚めることが難しいのだが)我々が、地震以前のことをいろいろなかったことにし、セキュリティ第一を理由にものを考えなくなってしまうことのないようにしたいものだ、と思った。