なあむ

やどかり和尚の考えたこと

サンデーサンライズ496 成道会

2024年12月08日 05時00分00秒 | サンデーサンライズ

三ちゃんのサンデーサンライズ。第496回。令和6年12月8日、日曜日。

 

先週は断続的にみぞれが降りましたがもちろん積もるほどではありませんでした。

一転昨日は、いわゆる雪が本格的に降り、少し積もりました。

今期初めての除雪機始動です。

 

昨日はボランティア会の古い仲間が取材のために新庄まで来たので、一緒にホテルに泊まり、鴨すきをつつきながらしゃべり、スナックで少し歌も歌いました。

本来、昨日まで蝋八接心で本日は成道会なのに何ということでしょう。

蠟八(ろうはつ)とは、蠟月八日つまり12月8日のことで、修行道場ではお釈迦様の成道の故事に倣い、この日に向けて12月1日から坐り詰めの行が行われます。それを接心(せっしん)と呼びます。

修行時代の一座目、維那和尚さんの「これより接心!」と宣言する新潟なまりの大音声に堂内がピーンと引き締まった記憶がよみがえります。

もちろん、道場だけでなく、一般寺院でも各々まじめに行じられる方もいます。

私は毎朝の坐禅に集約して特別に通常と変わったことはありません。

成道会の法要は12月1日、梅花講の総会で講員のみんなと勤めました。

だとしてもねえ。

彼が今日だというので仕方ありませんでした、と彼のせいにしておきます。

 

永平寺に居た時に成道に因んで詠んだ句があります。

 蝋接心 差定をながめ ながめ坐す

7日間、朝の3時から夜9時まで僧堂で坐り詰めの坐禅が続きます。普段は法堂で行じられる朝課も接心中は僧堂で坐ったまま行います。回廊掃除とトイレ以外は三度の食事も坐禅のままです。一日最大14坐ほど坐ります。最後の夜は日が変わるまで続けられるので、合計すると1週間で100回ほどの坐禅を行ずることになります。その差定(プログラム)が書かれた紙を何度もながめながら、どこまで来た、後何回と指折り数えて坐る心を詠みました。

 経を読む 白き息満つ 成道会

12月8日に日付が変わり、大開静の鐘が鳴るとようやく坐禅から解放されて、僧たちは列をなして僧堂から仏殿へ赴きます。お祝いの五味粥を一さじ掌に受けて口にし、成道を祝うお経を読むのです。仏殿を埋め尽くす200名近い僧が経を読む白い息で堂内がかすむほどです。疲労感とともにやり遂げたという何とも言えない満足感で胸がいっぱいになります。

 満堂に 成道祝う 僧の髭

接心中は本来風呂にも入らず頭も髭も剃りません。参拝者と接する役の僧はその限りではありませんが、特に役にあたらない僧は1週間頭も髭も伸ばしたままです。仏殿で経を読むその顔は、苦行を終えた釈尊のように荒々しく逞しく見えます。接心前と比べて一回り大きくなったようにも感じられます。

 

今年も多くの修行僧が接心を通して一回り成長したことでしょう。

毎年毎日繰り返される同じ行によって、新たな僧を育てていくのです。

僧とは行のことだと言っても過言ではありません。

仏道を行ずるのが僧なのです。行じないのは僧ではありません。

半僧半俗、在家と対比するのは出家なのですが、残念ながらこの国の多くの僧は出家とは言い難い状態です。それでも僧ではあります。

東南アジアなどのテラワーダ仏教では、出家と在家は10か0かで、半僧半俗というような中途半端な状態にはなり得ません。

今我々は在家と変わらない生活を送っている、その内容からして半分どころか2対8、1対9であっても、僧は在家ではありません。

では何を以て僧であると言えるのか、私はこう思います。

1,浄髪 頭を剃ること

原始仏教以来、僧を在家と区別する形として、頭を丸めることと袈裟を身に纏うことになりました。

それは恩愛を断つ意思表示で、周囲の人から見て「あれは僧だ」と判別され、衆目の力を借りて自らを僧らしい振舞いに規制する意味であったはずです。

2,暁天・朝課 朝の坐禅とお勤めを行ずること

曹洞宗の命脈は坐禅です。最低限この二つを以て、宗門の僧は自らを僧であると言える確信としていいのではないか、と思います。

 

今週の一言

「僧である自覚を忘れない」

 

今週はここまで。また来週お立ち寄りください。

 

 


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2 コメント

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僧とは行のこと (大閑道人)
2024-12-08 05:24:59
今週は、同意と反論がないまぜになり、今までになく心が動かされました。


表題は、ご投稿の文から引きましたが、
行=僧ならば、浄髪も暁天も「形」でしかないでしょう、・・・・と反論を試みましたが、
浄髪後をもって「僧」というのが、ただの「形骸」であり、
浄髪しているその最中こそ、「浄髪」を行事ている僧そのものだ、
なんて、理屈をこねましたが、これも違うでしょうね。

僧とは行のこと、とは、おそらく、行の目的がそれを決めるのでしょう。

私自身の永平寺での典座配役の経験で、当時の典座老師の
「我々は、将来暖簾を掲げるために包丁修行をしているのではない」の一言を
思い起こさせます。

さて、臘八接心は、釈迦成道の追体験、つまりは、初心忘るべからず、のこと。
私も、永平寺典座寮での初心を思い起こしました。
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ありがとうございます。 (三部義道)
2024-12-08 20:20:33
>大閑道人 さんへ
>僧とは行のこと... への返信
浄髪は形ですが、そこも無常で髪は常に伸び続けていますからね。浄髪状態を維持すること浄髪というのでしょう。棄恩入無為の行なのでしょうね。
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