Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

久しぶりに二度目の雪

2010年02月11日 20時43分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 雪になる予想とあって、確かに今日は寒い。横浜は前回のようには積もらないとの予想だが、明日の出勤は少し早目がよいかもしれない。
 この歳になって免除してもらったが、就職以来50歳に近くなるまで、雪が降る予想になれば前日から必ず出勤して、雪の対応に追われた。
 娘が生まれてから横浜市内で雪が降った日に在宅した日は1回しかない。その年は2週続けて降ったため、2回目は他の方に代わってもらった。職場が休みの日だったので、朝から小さなかまくらを娘と娘の同級生につくってやった。
 しかし、職場で雪害対応に追われなくなっても、土日の雪では、やはり家の周囲の雪掻きに精を出すことになる。結局は出勤しても同じことなのである。

自句自解(7) 白き月

2010年02月11日 20時31分49秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 自句自解をはじめたものの、「このペースでいったらいつ終わるのか」とちょっとあわてている。別に句が膨大にあるわけではない。インターネットでの展開を重視しているある俳句の会を退会したあと、俳句を作る気力がなくなったので、また作り始められるきっかけにしようと連載を始めたのだが‥。その目的は達成できていない。
 会に所属していたときは、毎日投句の場があり、月に一度くらいは実際に顔をあわせる句会があり、毎月俳句誌への投句があり、と俳句を追われるように作っていた。いい勉強・刺激にはなった。
 ひとりで作るのは、余程気が向いたときでないとつくれない。しかもかなり独りよがりになっていることも確かだ。
 自分の句の説明すらも独りよがりになりがちだし、自分の経験ばかりが先にたってしまう。もとより私なりの俳句の理論やめざす俳句の形があるわけではない。そんなおこがましいことは考えていない。だから自分の句を客観的に見る物差しは無いに等しい。
 それでも、このブログを訪れてくれている方が、このシリーズをはじめてから多くなった。決して少なくはない方が注目してくれているのはとてもうれしい。ただしはじめたからには途中でやめるのも、私の性格上嫌である。ということで、ぼちぼちと続けていく。結果がどのようになるか、自分でも楽しみにしている。

★水美味し体に秋を纏う朝
★鳴きながら蝉が手繰れるこの夕日
★家遥かこの身を透かす白き月
 8月末になって職場復帰をした。1ヵ月半もの休暇ははじめての経験だった。さいわい職場の同僚の暖かい配慮で、少しずつ仕事に慣れるように考えてもらった。今でも当時の仲間にいくら感謝しても感謝しきれない。
 出勤の朝は秋風が気配がした。気分を引き締めようとコップ一杯の水を飲んでから玄関を開けた。水の冷たさが体を満たすように思えた。涼しげな風も体を吹き抜けた。ゆっくりだがいつもの通勤路を歩くことができた。
 勤務時間を終え、職場を定刻すぐに出てまっすぐ家に向かうことは、就職以来あり得なかった。こんなときでないと、と思い、ゆっくりと駅から歩いた。白い月も、蝉の弱々しい声も発病時とは違う季節であることを実感させてくれた。
 弱々しいと思う蝉の声だったが、夕日の中で懸命にその主張を繰り返す蝉に強さを感じた。
 「水美味し」の句はすぐにすらすらとできたが、「なきながら」の句は、手繰れる、が出てこなかった。「蝶が縫い取る」という句を退院してすぐ作ったので、蝉らしい動詞を探したがうまくいかなかった。幹にとまっている蝉に日が当たり、前の二本の足を動かしているのからようやく「手繰る」が出てきた。当初「夕日かな」としたが、「この夕日」の方が自分にとっては具体的な「夕日」になると思って変えた。
 「家遥るか」の句、月の光に身を晒して身をつらぬかれる、という表現が私はとても好きだ。満月の夜、冬の星、夏の銀河、これら身を晒していると外気に自分の身体が溶け出していくような気分になる。この気分が好きだ。秋の夕方の白い月では光が鋭くはないが、わが身を光が満ちてくるような気分になる。それをあえて「透かす」としてみた。大げさかもしれないし、そんなに強い光ではないよ、といわれるのを百も承知で‥。やはり無理があったと、反省している。