Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

自句自解(6) 杖重し

2010年02月10日 23時58分34秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★病む我と同じ呼吸で秋の蝉
 8月の中旬にいったん退院。病院とは違って外の音が懐かしかった。鳥・車・子ども・自転車、そして蝉の声や風の音、どの音もしみじみと懐かしく聞いた。特に蝉の声が盛んだったが、じっと効いているとまだまだ夏の盛りのように鳴いている蝉の声も、元気な若々しいのと、弱々しいのとが交じり合っていることに気づいた。当然鳴き始めて一週間たったものは弱々しくなるのであろう。その弱々しいものを「秋の蝉」と表現してみた。
 回復期とはいえ、病気と薬の副作用に痛めつけられ、寝台に横たわる自分の弱々しい息と、今にも地面に落ちてきそうな弱々しい蝉の声とを同値してみた。
 自分の呼吸のリズムがその弱々しい蝉の鳴く間隔と呼応しているのに気づいたときは、とてもさびしく感じた。しかし同時に、体の隅々まで病院とは違う外気を行き渡らせるように深く深呼吸を繰り返すうちに、精気を取り戻しつつある、との実感も出てきた。
 自分と周囲の事象、それも自然現象に同値するという手法について自覚した時の句でもある。

★朝顔の垣根の隙の妻のかげ
 ときどきベランダにて花々の世話をする妻を見ながら、生きながらえたことを実感した。戸建の家のように見せかけるために「垣根」としたのではない。小さなプランターに立てた棒2~3本に絡みつく朝顔よりも、小さな庭であろうと多少の奥行きが感じられるほうが、また少し遠めに見えたほうが、落ち着きがある風景と感じた。
 また、不思議なもので、妻が小さなプランターとはいえ育てる花々は、自分が眺める団地という小さな区域の自然よりも、もっと身近で親しい自然のように感じられた。直接自分と会話をする植物のように感じた。
 だから登場人物は「妻」でなくてはならなかった。

★杖重し夕日を縫い取る夏の蝶
★杖重しすすきに埋もる祠まで
 夏の蝶とすすきというふうに季節が違うが、この二つの句は同時につくった。帰宅後3日ほどたってから寝ているだけでは耐えられなくなり、夕刻少し涼しくなった折、杖を突きながら、500メートルほどの散歩を始めた。
 はじめは自分以外の自然がすべて、自分よりは生き生きと元気に見えた。夕日を浴びながら飛ぶ蝶は、その不規則な飛び方ゆえに、オレンジ色の夕日の中で飛び跳ねるこどもように見えた。白い団地の壁とオレンジ色の夕日の色を縫い付けるように飛んでいると見えた。
 自分の周囲の活力全体への驚きを蝶の動きで表現してみた。重い杖と蝶の軽い動きを対比させた。
 これに引きかえあとの句は、その活力ある周囲に比べて弱々しい自分の歩行に着目した句だ。
 団地を横断して団地の外に今にも朽ち果てそうで、犬小屋ほどの大きさの「正一位稲荷社」がある。それでも人がかろうじてくぐることができる小さな赤い鳥居を10幾つも連ねている。
 最初の2日は、そこまで行くだけで肩で息をついた。すすきの穂が少しではじめた景色を見たくて、大きな「決意」をしてそこにたどり着いた。
 重い杖、そのものに着目した句としたかった。同時に「祠までは行きたい」という意志の回復を自分なりに喜んだ句でもある。