本日の読了は、「私の日本語雑記」(中井久夫、岩波書店)。
精神科医であると同時に現代のギリシャの詩人の翻訳でも知られる中井久夫氏の日本語論、というよりも言語論。月刊「図書」の連載の単行本化である。
最後の方、「英語が世界語となれば差異を求める人性にしたがって、フランス語なりドイツ語なりを話せるかどうかが差別化の決め手となるであろう。‥古代において、ラテン語がヨーロッパ世界共通語となったとともに崩れだして、イタリア語、フランス語を初めとするロマンス諸語となったような換わり方を、英語もするかもしれない。」「世界が一、二の言語に統一されたとすれば、そのとたんに世界がすりガラスのように見えなくなるであろう。そして、何らかのあるスローガンの下に世界が自滅するかもしれない。」
さらに「現在の言後専制下では、複雑な事態に対して過度の単純化が行われている。善と悪、因と果、友と敵の二分法は、今や言語の重大な「副作用」といえる段階に達している。」
また「印か関係は絵画では表現できない。では言語ではできるか。非常に単純化しなければ、できないのではなかろうか。(物理学の公式は因果関係は)問題とならない。因果関係というものは、数学的に表現された公式を言語に直す時に忍び込む何物かでなかろうか。」
最後の引用部分はなかなか理解できないが、初めと二番目の引用はよくわかる。特にグローバリゼーションが当然の成り行きとか、日本語が英語にのっとられるのではないか、という議論があたかも現実味を帯びているように喧伝されるなか、言語や歴史がそんなにたやすく崩壊するものではないことをきちんとおさえた議論が必要であろう。そうしないと機械論的で機能論的な言語論、芸術論という、スターリニズム言語論、あるいは日本のファシズム期にも表れた政治に従属する言語論・文学論の再来となってしまいそう雰囲気である。
日本は、そして世界は、第二次世界大戦の元となったファシズムについてもっときちんとした整理・総括が必要ではないだろうか。