「東京国立近代美術館ニュース第615号」は恩地孝四郎展について二つの論考が掲載されている。最初に掲載されているのが和田浩一宮城県美術館学芸部長の「恩地孝四郎-「版」と揺らぎの表現」。この論考は3点について述べている。
ひとつは恩地孝四郎のワシリー・カンディンスキーからの影響については昔から指摘はされていたらしい。恩地孝四郎が明確にカンディンスキーについて語ったのはないようだが、その可能性についてこの最初の部分に触れている。少しわかりにくいも表現であるが、根拠はあるようだ。
カンディンスキーが絵画に抽象表現を最初にもたらした先駆者であり、恩地孝四郎も版画の分野で嘲笑表現を確立している。「模倣」ではなくいい意味での「影響」、触発と私は感じ取っている。
むかし恩地孝四郎の作品を見た時私はすぐにカンディンスキーの世界に近い、と感じたことがある。
私の子どもが小さい時、カンディンスキーの絵を見て体を揺らしながらひとりで物語をつぶやいていた。自由に空想を馳せる姿に私は感動した。またそのような力を持つ作品を創出するカンディンスキーという画家にあらためて注目した。何か絵画の原点を見るような体験であった。
そんな力を恩地孝四郎の作品も持っていると思った。単なる模倣ならこんな力は発揮できないと思う。カンディンスキーの絵画は精緻で細かい描写も多い。版画という制約を生かして単純化、簡潔化へ進化している。描かれる形体の単純化、簡潔化は、得てして単純な繰り返し、安易な様式化へと下降していくのだが、恩地孝四郎の作品にはそのような片りんは感じられない。それが「模倣」ではない所以でもある。
このことは、和田浩一氏の論考のふたつ目の論考、「「版」の揺らぎ」へと結びつくのではないか。「恩地は、版画での制作において複数性には無頓着だった。実際一枚しか摺られない作品が多く、複数枚摺られても状態は異なっていた。恩地は、版画における「版」を、作品を安定させたり管理したりするものと捉えていなかった。むしろ絵画と同じような感覚で、自由に表現を紡ぎ出すための手段と捉えていた」と記している。
職人芸としての刷りや版木制作という過程を否定してそこで版画の「現代性」を獲得したということになる。むろん職人性を保持しながらの「現代性」獲得を私は否定しているのではない。恩地の方法論がそこに向かったということである。
三つ目の指摘は恩地における具象と抽象の関係、混在についての評価である。これについては別に触れたい。