本日は横浜駅まで2往復も歩いた。風邪でダウンしている妻に代わり横浜駅のスーパーまで買い物と、いつもの内科に薬を処方してもらいいったん帰宅。夕方から再び関内に所用があり横浜駅までは歩いて出かけた。帰りも横浜から歩いて帰宅。結局2月に入ってやっと4回目の1万8千歩超え。風邪でダウンしていたこともあり、2万2千歩超えの日はわずか2日しかない。しかし回復時点で無理をすると回復が遅れたり、再発したりするので無理は禁物。自重しなくてはいけない。
朝に続いて、シューベルトの2つの「4つの即興曲」を収録しているCDを聴いている。不思議なことにこれまでよりも耳に心地よく聞こえる。
何回聞いても惹かれなかった曲が、ある日ふと心に大きく響いてくることがある。こういう体験をするとこの曲が自然に頭の中に入ってくる。次に聴いた時になんとなく懐かしい曲をきいているような気持ちになってくるものである。
むろん逆のこともある。これまで聴くたびに心地よかったり、次から次に次のメロディーが自然に頭に浮かんできた曲が、まったく頭の中で反応しなくなることもある。ただしこういうことは長続きしない。いつの間にかそんなことがあったことは忘れてしまっている。気がつかないうちにその曲の記憶は元に戻っている。
一度でも心地よく頭の中に響くとその記憶が長い間残る。鮮明な記憶ではなくとも、その音楽を耳にすると気分が同調するように馴染んでいるのがわかる。
音楽の3要素(旋律、和音、拍子)とは別に、その曲の持つ何らかの要素が頭の中のある要素と響き合うと、すっと記憶の抽斗の中に抵抗なく入っていくような感覚である。うまく文章や言葉や文字では説明できないもどかしさがある。
こんな体験を分析的に記述したりする能力は私には無いのでこれ以上は言及しないが、俳句や短歌などについても、言葉の意味よりも先に韻律として頭の中にすっと入ってきて、あとから意味を捉えようとすることがある。意味から入る俳句や短歌よりも、この場合の方が好みのものとして私なりの評価が高いものがある。
私はこの感覚だけをたよりにこれまで音楽や、俳句や短歌や詩の世界と付き合ってきたと思う。
芸術に限らず、周囲の世界を受け入れる場合すべてについて当てはまることで、取り立てて記述しなくてはいけないような重大なことではないかもしれないという思いもある。
朝に続いて、シューベルトの2つの「4つの即興曲」を収録しているCDを聴いている。不思議なことにこれまでよりも耳に心地よく聞こえる。
何回聞いても惹かれなかった曲が、ある日ふと心に大きく響いてくることがある。こういう体験をするとこの曲が自然に頭の中に入ってくる。次に聴いた時になんとなく懐かしい曲をきいているような気持ちになってくるものである。
むろん逆のこともある。これまで聴くたびに心地よかったり、次から次に次のメロディーが自然に頭に浮かんできた曲が、まったく頭の中で反応しなくなることもある。ただしこういうことは長続きしない。いつの間にかそんなことがあったことは忘れてしまっている。気がつかないうちにその曲の記憶は元に戻っている。
一度でも心地よく頭の中に響くとその記憶が長い間残る。鮮明な記憶ではなくとも、その音楽を耳にすると気分が同調するように馴染んでいるのがわかる。
音楽の3要素(旋律、和音、拍子)とは別に、その曲の持つ何らかの要素が頭の中のある要素と響き合うと、すっと記憶の抽斗の中に抵抗なく入っていくような感覚である。うまく文章や言葉や文字では説明できないもどかしさがある。
こんな体験を分析的に記述したりする能力は私には無いのでこれ以上は言及しないが、俳句や短歌などについても、言葉の意味よりも先に韻律として頭の中にすっと入ってきて、あとから意味を捉えようとすることがある。意味から入る俳句や短歌よりも、この場合の方が好みのものとして私なりの評価が高いものがある。
私はこの感覚だけをたよりにこれまで音楽や、俳句や短歌や詩の世界と付き合ってきたと思う。
芸術に限らず、周囲の世界を受け入れる場合すべてについて当てはまることで、取り立てて記述しなくてはいけないような重大なことではないかもしれないという思いもある。