Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

富士山の初冠雪

2018年09月26日 23時33分36秒 | 天気と自然災害
横浜では大雨・強風注意報が発令されている。強風注意報は本日の4時から、大雨注意報は10時から。今は20ミリの雨が長時間やむことなく降り続いている。

明日も降り続くらしい。そして明日は本日よりも気温は下がるとのこと。本日19.6℃、明日の予報は19℃。冨士山が今年の初冠雪。

雨の音を聞きながら、就寝。

劣化した政治に追従する愚‥

2018年09月26日 20時48分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 新潮社は「新潮45」ですっかり味噌をつけ、謝罪にならない謝罪で「休刊」を宣言し、さらに悪評を自ら招いた。あまりに情けないものがある。だが、新潮文庫も、先ほど読んでいた「古典集成」もなくなっては困るものばかり、これ以上自ら悪評を吐き散らしてさらに自らを落し込めることはみっともない。

 人を一方的に傷つけておいて、無責任に放り出して廃業などということでは困る。

 確かに「古典集成」などではもうけは出ず、赤字であろう。しかし値段はどんどん高くなっているが、それなりに手軽に、そして持ち運び易いこの「集成」は私にはとてもありがたいものである。出版事業でこれだけのものを出した以上は当初のその出版に対する理念や熱意はなんとか継続してほしいと思う。その為にはあの雑誌の発行や、あの「休刊」に至る経過、意思表示は足枷である。

 私はあの「休刊」となった雑誌は手に取ったこともないが、政治家に利用されることや、人を傷つけることで販売数を増やすなどというど素人のトンデモな経営判断など恥ずかしい限りである。

 劣化した政治に追従する出版社、これでは出版文化もまたおおいに劣化することを免れない。社会全体の劣化に歯止めをかける出版事業であって欲しい。


新古今和歌集から

2018年09月26日 17時07分42秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 午後から本降りの横浜。朝からずっとボーっとしていた。本棚から新潮日本古典集成の「新古今和歌集上」をひっぱり出して、秋歌上をパラパラとベッドでめくってみた。

★ひとよりも 心のかぎり ながめつる 月はたれとも わかじものゆゑ
                  秋歌上 384 堀河右大臣

・月は誰にも分け隔てなく照らしてくれる。だがしかし見る方の私は人よりも心を尽くして月を見つめ、心が掻きむしられるほど物を想っている。

 訳にはなっていないが、大意はこのあたりだと思う。学生時代、この歌を読んで平安末期・鎌倉初期の時代の支配層の人びとの月に対する思いはここら辺にあるのかと思った。今も私の理解は変らない。
 それから発して、自分の心によって月に雲がかかるようになる、というところまでになるようだ。これは少し飛躍しすぎるとは思うが、20歳の私にはとても魅力的な思い付きだと感じた。

★憂き身には ながむるかひも なかりけり 心にくもる 秋の夜の月
                  秋歌上 404 前大僧正慈円

・こんなわが身の状態で見る月を見つめるのはつらい。私の心によって曇って見えるので。

 政争によって浮き沈みの激しかった慈円は、政治の表舞台の政治家以上にその僧としての地位が揺らいだ。不死鳥のように復活し模したであろう。生身の政治家以上の政治家であったと思われる。
 現代のわれわれにしたら、自分の気持ちで月が雲に隠れたり、雲から顔を出すなどという人間の思い上がりも甚だしいのだが、当時の人びとにとっては人の心と自然のあり様はどこかで綱かっていた。

★たのめたる 人はなけれど 秋の夜は 月見で寝(ね)べき ここちこそせね
                  秋歌上 408 和泉式部

・訪れると言って寄こした人はいないけれど、秋の夜は月を見ないで寝てしまいことなどできない。

★宵のまに さても寝(ね)ぬべき 月ならば 山の端近き ものは思はじ
                  秋歌上 416 式子内親王

・宵のうちに寝てしまえるような月なら、西の山に沈んでしまうのを惜しんで嘆くようなことにはならない。

 この二人の女性歌人が「月」になぞらえているのは、むろん思い人、通ってくる男であると想像することはたやすい。秋の歌におさめ理のではなく恋歌に納めるのが相応しいようだ。

体力と回復力の低下

2018年09月26日 10時21分39秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨日は歩数計で約6600歩を記録した。ただし、杖を突きながら歩幅も小さくユックリ歩き、ふだんは1000歩ほどの距離を1800歩ほどもカウントした。これまでの歩数に換算すると3700歩ほどしか歩いていない。荷物ははじめはごく軽いリュック、横浜駅からバスに乗った時に分担した荷物は2キロ程の買い物袋。

 帰宅した直後は特に疲労感はなかった。ところが夜になって脹脛と両肩の筋肉に疲労感と若干の痛み。運動ののちの心地よい疲労感ではなく、微熱の出たときのだるさに近かった。慌てて体温を測ったのだが、36.3℃と平熱であった。用心して風呂・シャワーは止めて早めに就寝。明け方に寝汗をかいた形跡はなかったことに安堵。
 久しぶりに横浜駅界隈の人混みの中を歩いたための疲労感だったのだろうか。病院内を歩くよりも数倍は精神的にも肉体的にも疲れたのであろう、と推察している。

 この歳で3週間近く入院をしていると、体力が元に戻るのはなかなか難しいようだ。50歳の頃に1週間40℃を越す発熱に疲労困憊し、さらに3週間と少し入院したのだが、杖をついて歩いたのは2週間、その閑数千歩歩いて体力の回復を図った。3週間目には職場にもどり毎日1万歩近くは歩いていた。
 あれから17年、残念ながらその頃に比べて回復力と体力は確実に低下している。本日は終日雨の予報でもあり、何か心持ちせかされるものもあるが、我慢して家で静かにしていようと思う。

★萩の風何かに急かるる何ならむ      水原秋桜子

 風に揺れる萩、何かに追い立てられるような心持ちになり、心の一隅がざわめく。秋櫻子還暦直前の句であるらしい。還暦になっても何かまだ達成感が湧かない自身の句の世界に対する苛立ちなのだろうか。焦燥感というのは、具体的な目標やめざすものが明確なものがない時に生まれる。具体化したものに対する未達成感よりも、何かもやもやして進路も分からないときの焦燥感というものは胸を掻きむしられるようなものである。特に自分で旗を大きく立てたものほど、焦燥感は強いのではないか。だが、秋の萩ならではの感慨でもある。春のユキヤナギではこの感慨は結びついてこない。
 体がついていかない、回復後の世界がうまく想定できないという時の焦り、焦燥感というのは倍加する。