
空はすっかり秋の雲であった。夕方近くの店に出かけたときにスマホで撮影してみた。もっと明るいうちに撮影すればよかったのだが、昼食時に出かけたときは空を見上げるゆとりはなかった。ストックをつきながら足もとばかりを見て歩いた。
夕方日が沈んでから出かけたときは、少し休んだときに空を見上げるだけの気持ちのゆとりができた。それでも2度ほど、ちいさな段差に足を取られそうになった。そして10分も歩くと左膝が少しガクガクになる。
入院するまでは、1時間ほど歩き続けると少し違和感があったりすることが度々であったところであるが、こんな短い時間で違和感を感じた。歳をとると筋肉の衰えは早いものである。
★ねばりなき空にはしるや秋の雲 内藤丈草
★妻がゐて子がゐて孤独いわし雲 安住 敦
★旅をしてみたく膝抱き鰯雲 高田風人子
第1句、「ねばりなき」とは言い得て妙な表現である。夏の入道雲とは違う。あの入道雲のような大きな塊は空の粘性に由来するのであろう。それに比べて秋の空は爽やかで、さらっとした感触、見ている人間もまたこだわりなく、飄々と見ているのであろう。秋の雲は小さな塊が続き、遠くの方では長く糸をひくように、かつ線を引いたように伸びている。
まさか雲が水蒸気であるとは丈草は知らなかったと思うが、この感性には脱帽。
第2句、第3句、夏の間の身近で濃密な人間関係に浸かれ、ふと孤独を欲しがる。あるいは疲労が孤独を求める。人間、回生のためには孤独と、人間関係から自由に成れたような錯覚の時間が必要である。