昨日は「定家明月記私抄 続編」のふたつの節を読んだ。あまり進まず。
そして夜になって太宰治の「東京百景」を読み始めた。これは枕元に放置してあった「東京百年物語3 1942~1967」(岩波文庫)の冒頭におさめられている作品である。ちょっと寄り道のつもりで読み始めた。
もう50年以上前、中学3年くらいの時に一度読んでいる。太宰治の作品は結局あまり読まずにいつのまにか遠ざかっていた。太宰治の文体、どこかいつも言いわけめいて、自己合理化から自己肯定感だけが鼻についてしまって敬遠していたと思う。
先ほど読み終わった。作家として歩み始めるまでの左翼体験とその挫折、自己解体、回生を辿る話である。こなれていない文章、全体の構成の不具合なども目につく。そこが太宰治そのものという面もあるが、私には気になる所でもある。
三十歳の転機を次のように叙述している。
「何の転機で、そうなったろう。私は、生きなければならぬと思った。故郷の家の不幸が、私にその当然の力を与えたのか。‥不当に恵まれているという、いやな恐怖感が、幼児から、私を卑屈にし、厭世的にしていた。金持ちの子供は金持の子供らしく大地獄に落ちなければならぬという信仰を持っていた。逃げるのは卑怯だ。立派に、悪業の子として死にたいと努めた。けれども、一夜、気が附いてみると、私は金持の子供どころか、着て出る着物さえ無い選民であった。‥もう一つ。‥私のからだが不思議にめきめき頑健になってきたという事実をも、‥。年齢、戦争、歴史観の動揺、怠惰への嫌悪、文学への謙虚、神は在る、などといろいろ挙げることも出来るであろうが、人の転機の説明は、どうも何だかそらぞらしい。その説明が、ぎりぎりに正確を期したものであっても、それでも必ずどこかに嘘の間隙が匂っているものだ。‥人は、いつのもにか、違う野原を歩いている。」
津軽の素封家に生まれた生い立ちや経済的依存が通奏低音のように、そしてそれが外的な要因にも拘わらず、どこか本質してな要因のように語られるのが太宰治の作品の常である。生家への依存関係を前提としたままの左翼体験という体験が、太宰治にとっては忘れられない「傷」なのである。
同時に「人の転機の説明は、どうもそらぞらしい」とその開削が上滑りしている印象がぬぐえない。「そらざらしい」で停止してしまっている。私は昔からここで太宰治の著作を放り投げてしまっていた。私はこの体験を転向とは言わないが「人生の転機」にこだわって生きてきた。体験の内在化だけが「説明」でもある。太宰治への違和感が、多分現在まで私の「こだわり」の核なのだと思える。
さらにどうしてそんなにこだわるのだろう、という疑問も持っている。だれもが出自があり、そことの葛藤の中で生きている。
こんなことを考えているうちに最後まで読み終わった。
妻の妹の許嫁を見送るため、増上寺の山門の前で立ち尽くす主人公は、
「(通り過ぎる)バスの女車掌がその度ごとに、ちょうど私を指さして何か説明をはじめるのである。‥おしまいには、私もポオズをつけてみたりなどした。‥すと私自身が、東京名所の一つになってしまったような気さえして来たのでる。」
この一節が転機の結果である。社会のなかでの自分の立ち位置が三十歳にしてようやく確定したことの現れである。と同時に、何も主人公を有名人としてもてはやそうなどというのではなく、たまたまそこに立っていただけなのだが、それに「ポオズ」をとってしまうという過剰な自己意識からこの作家は終生自由にはなれなかった。
「「安心して行って来給え」私は大きな声で言った。T君の厳父は、ふと振り返って私の顔を見た。馬鹿に出しゃばる、こいつは何者という不機嫌の色が、その厳父の眼つきに、ちらと見えた。けれども私は、その時は、たじろがなかった。」
ここで厳父は日本の古い社会の象徴でもあろう。ここには左翼体験・政治経験のなかで、日本の古い伝統の社会と格闘してきた作者の経験が反映している。「たじろがなかった」のは自負のなせる業だろうか。あるいは虚勢をはっているのだろうか。いづれにしろ、生きた具体的な社会の中での立ち居振る舞いへの移行が、果たされたことが表現されていると理解できる。
「武蔵野の夕陽を東京八景の中に加入させたって、差支え無い。‥芸術になるのは、東京の風景ではなかった。風景の中の私であった。芸術が私を欺いたのか、私が芸術を欺いたのか。結論。芸術は、私である。」
しかしこのような自覚の後のことは残念ながら私はいまだ知らない。いつかもうすこしじっくりと読む機会があるだろうか。