退職者会のニュースの原稿はほぼ出来がったので、机とパソコン周りの書類の山を整理しようとしているうちに具合が悪くなってしまった。
本日はまだそれだけの体力と気力が回復していないので、明日に延期。
土曜日の午前中は団地のボランティア活動であるが、こんな状態なので申し訳ないが参加せず家に籠ることにした。もっとも雨で中止の可能性も出て来た。日曜日も終日雨の予報。
私に静かにしていろという忠告なのであろう。
退職者会のニュースの原稿はほぼ出来がったので、机とパソコン周りの書類の山を整理しようとしているうちに具合が悪くなってしまった。
本日はまだそれだけの体力と気力が回復していないので、明日に延期。
土曜日の午前中は団地のボランティア活動であるが、こんな状態なので申し訳ないが参加せず家に籠ることにした。もっとも雨で中止の可能性も出て来た。日曜日も終日雨の予報。
私に静かにしていろという忠告なのであろう。
本日は無理をせず、ベッドの上で読書。といっても少し違った方面のものを読みたくなり、現代詩文庫「関根弘詩集」(思潮社)をひっぱり出してきた。1989年の第8刷が家にあった。
解説で磯田光一が「通常の意味における植物的な抒情は、片鱗ほども見られない。風景の構成物はほとんど鉱物的なものであり、しかもこの鉱物はメカニックな社会機構と不可分のつながりをもっている。‥昭和初年の左翼詩人たちと意外に共通したイメージ構成である。」と記している。
実は私は昔、この磯田光一氏の評を読んでこの「詩集」の前半におさめられている「新宿詩集」を読むのを途中でやめて本棚にしまい込んでしまったのである。多分関根弘の詩、磯田光一の評、ともに誤読・誤解をしていたのだと思う。
しかし今回は後半におさめられている「絵の宿題」をはじめて読んで、人の評に左右されずに自分の感覚で読むことをあらためて楽しんだ。
詩集「絵の宿題」より
砂漠の木
《根失い毬となってころげ
風のかなに生きる砂漠の木》
海をのんで
脳の皺かたどり化石した鉱滓(ノロ)の陸(オカ)
さらに液状の鉱滓
火の舌抜かれつつ散乱し
陽なく 陽炎もえる
嘔吐きれぬトロッコを捨て 誰もいないが
製鉄所裏のそこには
いつも風が吹く日
鎔鉱炉はスフィンクス変わり
頭をふると砂漠の木が走る
樹
血の気の失せたひとびとを
血の色に染め上げ
炎は
木を焼き
樹を焼き
泪を焼いた
機の葉はいっせいに火を吹き
漣がたったかとみえた瞬間
炎のなかに
動かぬ幹だけが黒かった
あの日
火の海と
海につづく川の波との間に
砂を噛み
痛むまなこをみひらいて
僕は樹のように立ち尽くしていた
*
僕は昼でも樹の間を歩いていると
突然樹が叫び出すように思えてならない
霧
この国の汽車は
霧のなかを走る
この国の汽船は
霧の波止場から出発する
この国の飛行機は滑走する
俺は霧のなかで
五年間暮らした
俺は霧のなかを
五年間旅行した
俺は霧に悩み
霧を憎悪し
太平洋から押し寄せてくる寒波と
俺の
いや俺達の
なまあたたかい体温が
霧の原因であることを発見した
俺が体温を捨て
氷になると
突然
北から
霧がはれた
なかなか分かりにくいところもあるが、「メカニックな社会機構と不可分」な「鉱物的な」抒情を感じ取った。私のいう「鉱物的な抒情」とは何かと問われると説明できない。しかし「霧」にあらわされた「歌謡曲・演歌」的抒情など糞くらえ、とすごむだけではない。それらをはぐくむ日本の工業の末端を支えてきた都市生活者の抒情というくらいに説明してみたい。
きっと根っからの都市労働者として、しかも戦前からの左翼体験もあり、多分農村的な共同体からも切り離された出自を自覚的に取り上げている。生半可な「抒情」に溺れることのない気質を垣間見ることが出来る。
「鉱滓」や「嘔吐されぬトロッコ」が風景であり、「頭をふると砂漠の木」がある風景が関根弘の原風景であろう。関根弘を知る以前に、私はここから始まるような「抒情」に何かの可能性を見つけたいと願ったことがある。
私は、それを今ではもう忘れてしまった、中途半端で情けない人間であるのだ。
午前中に内科で受診。
やはり急性の胃腸炎ということの診断。昼に食べた海鮮丼の所為かと聞いたところ、発熱が夕方にあったとしたら早すぎるので、それが原因ではない可能性の方が高いと言われた。しかし朝食では火を通していないものは摂っていないので、私としては意外な思いであった。
一昨日の昼から夕方に体が重く、発熱したらしい時刻までの行動をつぶさに報告した。自分で報告しながら、不思議なことに気がついた
まず昼前に、家から歩いて15分ほどの蕎麦店で妻と食事をしてから、妻は近くのスーパーへ。私は更に歩いて15分ほどの駅で自分の買い物とコーヒータイム、そしてバスで帰宅という計画を立てた。太陽が頭の真上にある間はウォーキングは避けてきた。夕方になって地形やビルの影を歩いていた。一昨日もあまりに暑いのでわずかなビルの影を伝って歩いたつもりである。ただし帽子は被らなかった。帽子とマスクでは暑さがいっそうつらくなる。
ところが不思議なことに、歩き初めてから30分以上の記憶がないのである。妻と別れてから向かった駅からさらに二つ先の私鉄の駅の近くの商店街、その中ほどにあるコンビニのイートインコーナーで喉を潤している自分に気がついた。
この間の恐らく30分ほどが記憶の曖昧な時間である。この間に暑さに意識が朦朧としていたようだ。イートインコーナーで喉を潤したのち、神奈川大学のキャンパスの外周を歩いてふたたび大学の建物の影で、自販機のスポーツドリンクで水分補給をして自宅にたどり着いた。
コンビニのイートインコーナーから自宅の間も記憶がとぎれとぎれで曖昧な部分もある。
医師は意識が曖昧になったことについては特に何も言わなかった。私は暑さで体調が悪くなったところに多少痛んだものを摂ったことが胃腸炎の症状をさらに悪化させたのではないか、と推測している。
さいわい本日は病院から自宅に戻った後も熱は出ていないし、押さえない限り腹部の痛みもない。食欲はあまりない。昼はお粥一杯。夜もお粥にしてもらう。医師からは炭水化物を中心に柔らかいものを食すように言われている。水分をこまめに摂ることも念押しをされた。
昼の最中に30分以上も記憶が曖昧な時間があったことにショックを受けている。暑さに意識が朦朧としたのだろうが、恐ろしいものである。