Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」

2020年08月06日 20時17分47秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 友人と「閑さや岩にしみ入る蝉の声」(松尾芭蕉)の解釈についてメールでやり取りした。私からの発信を整理してみた。

 wikipediaでは、以下のように記述されている。
★1926年、歌人の斎藤茂吉はこの句に出てくる蝉についてアブラゼミであると断定し、雑誌『改造』の9月号に書いた「童馬山房漫筆」に発表した。これをきっかけに蝉の種類についての文学論争が起こった。1927年、岩波書店の岩波茂雄は、この件について議論すべく、神田にある小料理屋「末花」にて一席を設け、茂吉をはじめ安倍能成、小宮豊隆、中勘助、河野与一、茅野蕭々、野上豊一郎といった文人を集めた。 
アブラゼミと主張する茂吉に対し、小宮は「閑さ、岩にしみ入るという語はアブラゼミに合わないこと」、「元禄2年5月末は太陽暦に直すと7月上旬となり、アブラゼミはまだ鳴いていないこと」を理由にこの蝉はニイニイゼミであると主張し、大きく対立した。この詳細は1929年の『河北新報』に寄稿されたが、科学的問題も孕んでいたため決着はつかず、持越しとなったが、その後茂吉は実地調査などの結果をもとに1932年6月、誤りを認め、芭蕉が詠んだ詩の蝉はニイニイゼミであったと結論付けた。 
ちなみに7月上旬というこの時期、山形に出る可能性のある蝉としては、エゾハルゼミ、ニイニイゼミ、ヒグラシ、アブラゼミがいる。

 なお蝉の種類とは別のことですが、俳人の長谷川櫂は、次のように述べている。
☆ここで芭蕉が詠んだ「閑さや」の句は『おくのほそ道』の中で大きな意義をもっています。西脇順三郎(詩人、1894—1982)ふうに訳すと、
 何たる閑かさ
 蝉が岩に
 しみ入るやうに鳴いてゐる
こんなふうになりますが、蝉が岩にしみいるように鳴いているのなら「何たる閑かさ」どころか、「何たるやかましさ」ではないか。
やかましいにもかかわらず芭蕉が「閑さや」とおいたのは、この「閑さ」が蝉の鳴きしきる現実の世界とは別の次元の「閑さ」だからです。そこで本文に目をもどすと「佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ」とあって「閑さ」は心の中の「閑さ」であることがわかります。

 長谷川櫂は尊敬する俳人で、現在岩波書店の「図書」に連載されている文章も勉強させてもらっている。しかし、上の引用で「蝉が岩にしみ入る」という解釈をしていることに違和感を持った。私は「しみ入る」のは「蝉の声」だと思っいる。
 蝉時雨の下にいて、蝉の声を聞き分けたり、風のささやきを聞いたり、蝉の声の合間に鳥の声を探ったりしていると、ふと蝉の声か後景に退いて感じられる時があるのではないか。ましてミンミンゼミよりも声の抑揚・変化が小さいのでニイニイゼミの方が「閑づか」(「静か」よりもこちらの方がびったりと思う)のではないだろうか。
 多分人間関係が煩わしいと感じたときに、自然の時間の中に自分を置いた際の「心すみ行」く心境なのではないか。
 結論部分も長谷川櫂とは微妙にちがいを感じる。人間関係が煩わしくなくとも、自然の中で自分と対話する時間を持って「心すみ行」く心境を大切にしたいと私は思う。自然は私を間違いなく内省的にしてくれる。
 ひょっとしたら、「岩にしみ入る」と同時に「自然の時間の流れが心にしみ入る」という心持ちを読み取ってもいいのかもしれない。
 ここまで述べてきたように、私は「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句は、「蝉の声」が眼目である。ふと、「閑か」あるいは「蝉の声」が消えた瞬間、芭蕉は自分自身を取り戻し、次への活力を得たのだと思う。「蝉」が「岩にしみ込」んでいく、というのは芭蕉も岩に入り込んでしまい、現実からの逃避、ないし芭蕉の存在の希薄化につながってしまうのではないか。芭蕉という個人が希薄になる解釈だと感じる。

 こんな思いをあらためて再確認した。


広島 平和への誓い

2020年08月06日 14時04分28秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

《被爆50周年(平成7年)の平和記念式典では、広島市長の平和宣言に続いて、初めてこども代表が「平和への誓い」を述べました。これは、「こども平和のつどい」で世界のこどもたちが話し合った結果を平和への決意として述べたもので、翌年以降もこの成果を引き継ぐ「こどもピースサミット」を開催し、「平和への誓い」を発信しています。》

 平和への誓い

「75年は草木も生えぬ。」と言われた広島の町。
75年が経った今、広島の町は、人々の活気に満ちあふれ、緑豊かな町になりました。

この町で、家族で笑い合い、友達と学校に行き、公園で遊ぶ。
気持ちよく明日を迎え、様々な人と会う。
当たり前の日常が広島の町には広がっています。

しかし、今年の春は違いました。
当たり前だと思っていた日常は、ウイルスの脅威によって奪われたのです。
当たり前の日常は、決して当たり前ではないことに気付かされました。
そして今、私たちはそれがどれほど幸せかを感じています。

75年前、一緒に笑い大切な人と過ごす日常が、奪われました。
昭和20年(1945年)8月6日 午前8時15分。
目がくらむまぶしい光。耳にこびりつく大きな音。
人間が人間の姿を失い、無惨に焼け死んでいく。
町を包む魚が腐ったような何とも言い難い悪臭。
血に染まった無惨な光景の広島を、原子爆弾はつくったのです。

「あのようなことは二度と起きてはならない。」 

広島の町を復興させた被爆者の力強い言葉は、私たちの心にずっと生き続けます。
人間の手によって作られた核兵器をなくすのに必要なのは、私たち人間の意思です。
私たちの未来に、核兵器は必要ありません。

私たちは、互いに認め合う優しい心をもち続けます。
私たちは、相手の思いに寄り添い、笑顔で暮らせる平和な未来を築きます。
被爆地広島で育つ私たちは、当時の人々があきらめずつないでくださった希望を未来へとつないでいきます。

   令和2年(2020年)8月6日
                      こども代表 広島市立安北小学校  6年 長倉菜摘
                            
広島市立矢野南小学校 6年 大森駿佑  


広島 平和宣言

2020年08月06日 10時41分28秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 今年も広島原爆の日がやってきた。いつものように広島市長による平和宣言を転載してみる。

 平和宣言

 1945年8月6日、広島は一発の原子爆弾により破壊し尽くされ、「75年間は草木も生えぬ」と言われました。しかし広島は今、復興を遂げて、世界中から多くの人々が訪れる平和を象徴する都市になっています。

 今、私たちは、新型コロナウイルスという人類に対する新たな脅威に立ち向かい、踠いていますが、この脅威は、悲惨な過去の経験を反面教師にすることで乗り越えられるのではないでしょうか。
 およそ100年前に流行したスペイン風邪は、第一次世界大戦中で敵対する国家間での「連帯」が叶わなかったため、数千万人の犠牲者を出し、世界中を恐怖に陥れました。その後、国家主義の台頭もあって、第二次世界大戦へと突入し、原爆投下へと繋がりました。
 こうした過去の苦い経験を決して繰り返してはなりません。そのために、私たち市民社会は、自国第一主義に拠ることなく、「連帯」して脅威に立ち向かわなければなりません。
 原爆投下の翌日、「橋の上にはズラリと負傷した人や既に息の絶えている多くの被災者が横たわっていた。大半が火傷で、皮膚が垂れ下がっていた。『水をくれ、水をくれ』と多くの人が水を求めていた。」という惨状を体験し、「自分のこと、あるいは自国のことばかり考えるから争いになるのです。」という当時13歳であった男性の訴え。
 昨年11月、被爆地を訪れ、「思い出し、ともに歩み、守る。この三つは倫理的命令です。」と発信されたローマ教皇の力強いメッセージ。
 そして、国連難民高等弁務官として、難民対策に情熱を注がれた緒方貞子氏の「大切なのは苦しむ人々の命を救うこと。自分の国だけの平和はありえない。世界はつながっているのだから。」という実体験からの言葉。
 これらの言葉は、人類の脅威に対しては、悲惨な過去を繰り返さないように「連帯」して立ち向かうべきであることを示唆しています。
 今の広島があるのは、私たちの先人が互いを思いやり、「連帯」して苦難に立ち向かった成果です。実際、平和記念資料館を訪れた海外の方々から「自分たちのこととして悲劇について学んだ。」、「人類の未来のための教訓だ。」という声も寄せられる中、これからの広島は、世界中の人々が核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて「連帯」することを市民社会の総意にしていく責務があると考えます。
 ところで、国連に目を向けてみると、50年前に制定されたNPT(核兵器不拡散条約)と、3年前に成立した核兵器禁止条約は、ともに核兵器廃絶に不可欠な条約であり、次世代に確実に「継続」すべき枠組みであるにもかかわらず、その動向が不透明となっています。世界の指導者は、今こそ、この枠組みを有効に機能させるための決意を固めるべきではないでしょうか。
 そのために広島を訪れ、被爆の実相を深く理解されることを強く求めます。その上で、NPT再検討会議において、NPTで定められた核軍縮を誠実に交渉する義務を踏まえつつ、建設的対話を「継続」し、核兵器に頼らない安全保障体制の構築に向け、全力を尽くしていただきたい。
 日本政府には、核保有国と非核保有国の橋渡し役をしっかりと果たすためにも、核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いを誠実に受け止めて同条約の締約国になり、唯一の戦争被爆国として、世界中の人々が被爆地ヒロシマの心に共感し「連帯」するよう訴えていただきたい。また、平均年齢が83歳を超えた被爆者を始め、心身に悪影響を及ぼす放射線により生活面で様々な苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、その支援策を充実するとともに、「黒い雨降雨地域」の拡大に向けた政治判断を、改めて強く求めます。
 本日、被爆75周年の平和記念式典に当たり、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、核兵器廃絶とその先にある世界恒久平和の実現に向け、被爆地長崎、そして思いを同じくする世界の人々と共に力を尽くすことを誓います。
 
  令和2年(2020年)8月6日               広島市長 松井 一實