午前中と午後とで、「図書8月号」と「定家明月記私抄」(堀田善衛)を読む。「図書8月号」と読了。
「定家明月記私抄」は、数日振りにページをめくり、「堀川院題百首」「西行との出会」「花も紅葉もなかりけり」「後白河法皇死」「再び明月記欠」「心身甚だ歓楽」「九条家の人々」の7つの節を読み終わった。 本日読んだの「後白河法皇死」以降の4節。
「わが国の政治史の不思議の一つは、禁中に相変らず盗賊が入ったりはしているけれども、宮廷側においては平氏と源氏が交替しても自分たちがそのままで存続するであろうことに何等の疑念をもたず、その疑念のなさそのものが存続のための最大の武器になっているという不思議である。そこに何故か、という問いはない。何故か? この不思議を不思議としないところに、おそらくわが国の政治史の最大の特徴があるのであろうし、頼朝ももとよりそれを不思議とせず、されば弟である義経の踪跡ばかりを追いかけるという仕儀となる。」(「堀川院題百首」)
「(崇徳上皇は)皇を取て民となし、民を皇となさん(保元物語)――これほどに猛烈な革命的言辞を成した人は、日本の歴史には他に親鸞ただ一人なのである。革命とは、皇を取て民となし、民を皇となさん、という意志以外の何物でもない。‥西行は配流後の崇徳院に対して、ほとんど説得説伏をでもするかのようにして恨みを解け、とすすめているのであるが、それは思想問題についての、思想家としての自信なしには出来ないことであったろう。(西行は)一つの時代の取りなし役、今風にこれを言えば黒幕、あるいはフィクサーの役を果たしているかの観がある。」(「西行との出会い」)
「“霜冴ゆるあしたの原のふゆがれに一花さける大和撫子”作者(定家)の実情が不在であることが一層はっきりする‥。書斎にあって、おそらく夜更けて闇を凝視しながら必死になって作歌を続けている定家の苦業が目に浮かぶ。しかしこの一首は珍しく可憐である。」(「花も紅葉もなかりけり」)
「“なにとなく心ぞとまる山の端にことし見初むる三日月のかげ”「なにとなく」といういい方は、この頃からしきりに言い出されたもので、西行、慈円などにも多く、時代閉塞の様相が顕在しはじめると、人は「なにとなく」などという曖昧なことばを口にしはじめるもののようである。」(「花も紅葉もなかりけり」)