第1章「「螺旋展画閣」構想」から、いくつか覚書として。
「高階秀爾は先に引いた「日本近代美術史論」において、高橋由一の絵が明治十一年(1878)頃から急速に緊密な表現力を失っていくことを指摘、その原因を、明治九年(1876)に工部美術学校の教師として来日したアントーニオ・フォンタネージと知り合うことで、西洋の正当な油絵表現に触れたことに帰している」
「(工部美術学校は)殖産興業政策の起点となった現業官庁であったわけで、‥実用技術の立場から、美術家というより職人ないしは技術者を育成することを目的としていた‥。」
「フォンタネージが日本に滞在したのはたった二年、高階秀爾が由一の作風の変化を指摘する明治十一年(1878)という年は、質はフォンタネージが病を得て帰国の途についた年であった。そしてその年、‥入れ替わるようにして、‥アーネスト・フェノロサが東京大学文学部の教師に着任している。(フェノロサ)はやがて絵画の国粋主義的改良運動を率いるイデオローグとして活躍することになる‥。‥文明開化の時勢のなかで西洋画法の習得に務めてきた明治の絵画は、フェノロサが国粋主義的改良主義の活動を開始する一〇年代の半ば以降一〇年近くにわたって国粋主義に支配され、抑圧を受けることとなる‥。」
「国粋主義の動きが、明治絵画の基軸を、西洋画法から伝統画法へと転換するものであったのはいうまでもないとして、(一)伝統絵画の在り方自体にも転換を迫る改良主義として展開された、(二)翻訳によって西洋からもたらされた「美術」というものを、この国に実現することをも目指していた。」(以上、「8 二人のF――「螺旋展画閣」構想の背景【一】)
「(明治時代の)西洋画が美術になってゆく過程は、「美術」が芸術として自覚されてゆく過程-西洋から翻訳によってもたらされたこの概念が、実用技術とたもと分かって、芸術として確立されてゆく過程でもあった。その過程の初めにおいて主導権を握っていたのは西洋派ではなく、状況を牛耳る国粋派であった。国粋派は、美術ジャーナリズムを形成し、美術家たちの協会をつくり、また政府にはたらきかけることで展覧会や美術学校を開設するなど、美術のための諸制度を築き上げることを通じて、芸術としての「美術」を確立させていったのである。」(「9 明治一四年の意味――「螺旋展画閣」構想の背景【二】)
「制度としての美術とは――「美術」という語のもとに在来の絵画や彫刻などの制作技術が統合され、また美術の在り方が博覧会、博物館、学校などを通じて体系化され、規範化され、一般化されることで、美術と非美術の境界が設定され、さらにかかる規範への適応如何が制作物への評価を決し、さらには、そのような規範が公認され、自発的に順守され、反復され、伝承され、起源が忘却され、ついには規範の内面化が行われるといった事態=様態、これをさす。」そうして明治十四年(1881)という国粋主義の時代への入口で構想された「螺旋展画閣」はこうした意味での制度化の開始を告げるモニュメントであった。」(「10 反近代=反芸術――未術という制度」)
「螺旋展画閣」の形態に対する歴史的、社会的、文化史的評価についての言及は省略させてもらった。ただし、「バベル的鑑賞」などの評価は傾聴に値する視点であった。