二日ぶりくらいに「眼の神殿 「美術」受容史ノート」(北澤憲昭、ちくま学芸文庫)を読む。明日中には第1章を読み終えるはず。少しアクセルを踏み込んで、読み進めたい。
「西洋画を受容するということは、厳密なことをいえば描く法ばかりか「望見るの法」をも同時に受容するということであり、伝統絵画とは決定的に異質なその絵画をこの国に定着するためには、画法の伝習から鑑賞の在り方にまでわたる絵画体験全体の制度的な変革が必要だったのである。」
「高橋由一が不惑にして迎えた明治維新という大転換は、西洋画のための制度的変革を行う絶好の機会であったばかりが、それにつづく「文明開化」の政治過程は西洋画を治術の核心近くに位置づけるはずであった。‥由一は、作画に従事するばかりではなく、西洋画を社会的に活用し定着させていくさまざまな事業にかかずらっていくことになるのである。画塾を開いて後進を育成し、油絵の展覧会を開き、油絵展観場を講演し、西洋画材の製造を指導し、日本で最初に絵画雑誌を発行するなど、その事業は多岐にわたるものであったのだが、これ以外にも施設=制度に関する企画やアイディアが山ほどあって、「高橋由一油画史料」には博物館、美術館、美術学校などの設立や改革に関する起案書や願書の類が数多くおされられている。」
「由一は明治一四年(1881)に、美術という名の神殿そのもののような奇妙な建築物の構想を記しとめている。すなわち「螺旋展画閣」構想がそれである。」
第1章の第1節「洋画史の舞台 高橋由一の画業=事業」にはこのように記されている。第1章は以下、この「螺旋展画閣」をめぐる記述である。