本日は、「日本美術の歴史」(辻惟雄)の続きを読んで過ごした。
読んだのは、第5章「平安時代の美術(貞観・藤原・院政美術)」の「一 密教の呪術と造形[貞観美術]」
第5章の冒頭で、平安時代の美術を前期-貞観(じょうがん)美術(794~894、九世紀)、中期-藤原美術(894~1086、十~十一世紀)、後期-院政美術(1086~1192、十二世紀)に分けて記述している。
本日はこの前期にあたる時代に目を通した。
「(仏画は遺品は少ないが、彫刻は)二つの重要な変化が八世紀末から九世紀にかけて起こっている。皮質は奈良時代の塑像や乾漆像の流行に変わって、木彫像、それも素木(しらき)のままの美しさを生かす無彩色像が流行したことであり、二つはその作風が異様なまでの表現となったことである。」(⑤「貞観彫刻の特異性」冒頭)
「貞観仏と呼ばれるこの時期の木彫像は天平彫刻の古典的様式を基本的に踏襲しながら、それと背反する強烈な表現的性格を備えている。‥胸板の厚い堂々たる体躯の量感、神秘的な顔立ち、動きを孕んだ力強い衣文の刻み、仏像の全体から発する呪術めいた気分、衣文の刻みの特色である翻波(はんぱ)式-それらをもたらしてものはなにか。専門家は鑑真和上の渡来をきっかけに唐から新しくもたらされた技法に揺ったとみられる一群の素木造の木彫は、‥天平彫刻とは違った新しい性格を示している。‥もう一つ、それまでのはなやかな官寺造営の影に隠れていた民間の山岳信仰を基盤とする造形が、この時期に表面に出たということである。現在はこの観点を軸に議論が盛んである。」(⑤「貞観彫刻の特異性」冒頭)
「(神護寺薬師如来立像)と唐招提寺木彫群の間にある連続と飛躍と断絶――それをどのように解釈すればよいだろうか。「すべての芸術的初発性を示す作品に内在する、解き明かせない固有の造形精神の問題である」(上原昭一、「平安初期彫刻の展開」)。空海も最澄も、唐に渡る以前は山岳で修行する僧であったことが思い出される。修験道の山岳信仰が、遠く縄文文化に起源することもおそらく否定できまい。神護寺薬師像の驚くべき「芸術的初発性」は、霊木信仰が当時の中央の仏師に“気”を吹き込み、縄文の血を覚醒させたためではないか。」(⑤「貞観彫刻の特異性」)
「井上正氏は八世紀後半から九世紀にかけ、各地でつくられた一木造の仏像に異形のものが多く、それらが行基の作と伝えらていることに着目し、行基の信仰の基礎となった民間信仰の多くが一見未完成の鉈彫りで、眼が開かない状態を意図して彫られていることを指摘し、それらが樹木の霊の造形であり、霊木のなかから仏が化現する過程をあらわしたのだと主張する。‥「異相」を稚拙な地方作と水霊威の意図的表現とすなす氏の考えは示唆的である。貞観仏は東北地方にもすぐれた遺品を残している。‥美よりも呪術の力を感じさせるこれらの素朴な像は、かつて東北地方を中心に栄えた「縄文的なるもの」の血脈に属するといえる。」(⑤「貞観彫刻の特異性」末尾)
ここの5節は概括的な歴史教科書であることを離れて、大胆な視点を提供してくれている。「縄文」「修験道」「霊木信仰」「異相」そして「芸術的初発性」という視点は魅力的である。いかにも辻惟雄氏らしい指摘である。私はこの魅力から離れられないでいる。