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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

長年働いていた建物が解体

2021年10月28日 23時32分37秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 明日は、現役時代に所属していた職場を訪問予定。

 実は私が働いていた職場が取り壊され、隣の駅に出来た新しい建物に移転した。この取り壊された建物ができたのが1976年1月10日。私が就職して9か月目にできた。私が採用された1975年4月から準備室だった職場が正式に所属として発足し、開設された。しかし建物がまだ完成しないので、隣の区の職場に居候していた。晴れて独立の建物に移転したのが解体された建物である。
 以来、33年間その建物で執務した。当初は大規模造成中の戸建て団地の端っこにあり、毎日トラックの巻き上げる埃との格闘であった。周囲には商店もなく、中華料理店が1店だけあって何とか昼休みの食事は確保できた。しかし病院もなく、地下鉄の駅もなく、ちょっとした買い物もできなかった。

 一応ターミナル駅からバスが出てそれで通ったのだが、時刻表通りならば15分で到着するはずなのに雨が降れば満員になり、30分以上もかかった。1年後に地下鉄が開通し、大規模商業施設も進出。周囲に商店がようやくでき始めた。
 新しい建物の内部の造作もゼロから開始し、少しずつ機材や調度品を揃え、何とか形になったのが3年後。しかしその時点では手狭になってしまった。事業の拡大や業務移管で人員も増え、備品も拡大。増築がなったのが、10年後であった。
 だからとても愛着がある建物であった。建物のひとつひとつのシミや傷や、調度品の配置に思い出が詰まっている。それが解体されるのを見るのは寂しいものがあった。

 1976年1月から2021年4月まで45年3か月で取り壊されてしまった。最後の時点で働いていた人は新しい建物でわくわくはしていると思うが、当初からいた人間には感慨深いものがある。
 建物だから永久に存続するものではない。しかもウナギの寝床のように長い敷地で、決して使い勝手が良いわけではなかったが、そこは働いていた人間の工夫で乗り切ってきた。すでに故人となった先輩の知恵と工夫が詰まった使い勝手であった。
 また川沿いに建っており、建物の裏手には川に大きく枝を伸ばしたソメイヨシノが5本、毎年見事に咲いてくれた。窓全体がソメイヨシノに彩られ、来所する人が階段を上がるとまずその景色に感嘆の声を上げたものである。文句を言いかけてきた人もこの一瞬で少し気分が和らいだと思う。

 ということで、現在いる仲間が古い庁舎の最後の中の様子を撮影してくれていた。それを見に行くつもりでいる。私にとってはとても寂しい。


もう初校ができた

2021年10月28日 21時36分52秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日の夕方には、印刷会社から退職者会ニュースの初校が送られてきた。随分と早いので驚いた。私の割付がしっくりこないところも読みやすいような割付にしてくれた。
 いくつかの訂正をお願いして、第2校を待つ段階である。もっとも11月1日にならないと確定しない記事と写真もあり、迷惑をかけている。
 私の原稿づくりは難産だったが、印刷会社のほうの手際がよくて、とてもありがたい。
 予定では5日に確定して、8日から印刷、15日に届けてもらう段取りである。

 本日はだいぶ草臥れた上に、すでに予定の歩数には達したので、夜のウォーキングは中止。

 


横浜市内をめぐり歩く

2021年10月28日 20時46分08秒 | 読書

 本日も横浜市内の4つの区をめぐり歩いた。家についてみると、脹脛と太腿の筋肉がはっており、だいぶ草臥れた顔が、鏡の中に現れた。自分の顔ながら、わびしげである。

 ようやく選挙広報が配布となった。国民審査、比例代表、小選挙区と3つに分かれている。配布するほうも、読むほうも大変である。目を通す暇のない人にとっては、これを見ただけでうんざりしてしまうかもしれない。

 本日は久しぶりに短時間であったが、移動で使った市営地下鉄とバスの中で「万葉の時代と風土」(中西進)を紐解き、「呪と美と――「袖振る」をめぐって」の前半に目を通した。
 本日読んだところは、「茜さす紫野行き標の行き野守は見ずや君が袖降る」(八~二〇)の「袖振る」の解明に当たっている。
 この歌は中学生の頃、教科書で読まされたが、天皇の眼前で「袖降る」という行為が認められるはずがないのに、古代にはどういう意味が込められていたのが、結局わからないまま今に至っている。
 その後も幾冊かの解説を読む機会を得ているが、納得のいくものはいまだに出会っていない。この解説に期待しつつ目を通した。まだこの節の終わりまで至っていない。
 こういう疑問というのは、いったん疑問に思うと、ずーっと気になるものである。