「古代文明と星空の謎」(渡部潤一、ちくまプリマ―新書)をバスの中で読み終わった。
よく目にするのは、古代のストーンヘンジやピラミッド、中米アメリカのミラミッド様の建造物から、「かなりの高度な天文観測装置」という記事。しかしそれほど高度で精緻な「天文学」「暦」があることが、その文明の現実の知識体系とあまりに落差があることに疑問をいつも感じている。
この書は、そのような「高度な天文学」的な思い入れはしていない。それが気に入って購入した。
「ストーンヘンジが夏至の日の出や冬至の日の入りの方向をしめすことについては、考古学者も天文学者も見解が一致しています。ただ、月の出入りに関してまでも話が広がると、天文学者の観点からみれば、見解は異なってしまいます。‥多くの要素(石やサークル)があるのでどれかを取り出して結ぶとそれなりに意味を見出してしまうという危険性もあることを肝に命じなくてはなりません。」 (第1章「巨石文化は何を示しているのか?」)
ここら辺の記述はとても参考になる。しかし、
「私たち日本人のように四季が明瞭な国に住んでいる人間にとっては、(太陰暦は)ちょっと我慢できません。赤道近くの砂漠に住んでいる人たちにとっては、もともと季節による変化がほとんどないわけですから、どれだけずれたとしても、まったく構わないことになります。‥メソポタミアからアラビアにかけて住んでいた人たちにとっては、季節によって何かするわけでもないので、月の満ち欠けだけでできた太陰暦で十分だったのです。しかし日本人である私たちだと太陰暦では困ります。3年でひと月ずれる太陰暦では、春、夏、秋、冬がいつ来るのか、何月という決め方では定まりません。私たちようにな農耕民族にとって、純粋な太陰暦は使い物にならないのです。」(第2章「太陽信仰とピラミッド」)
これはいただけない。「農耕民族」という概念は果たして歴史学・社会学などで通用する概念だろうか。「農耕」に従事する民と「牧畜」を主とする民と、相互互換が可能であり、牧畜ばかり、農耕ばかりの民だけで存在できる社会が存在したわけではないことは、明らかである。漁業でも季節による漁の変化への対応が必要である。そこの分析も必要になる。
まして日本人が「農耕民族」の代表ではないし、この列島には農耕以外の生産に携わった人びともまた必要な「民」であった。彼らの生産に従う暦や天文現象の見方の分析もまた必要になるはずである。
砂漠、農耕民族、四季の存在、これらの言葉が無造作に独り歩きしている。私も大学の理学部で閉口したが、多くの理系の教授が和辻哲郎の「風土」論を無批判に、それもかなり牽強付会の果てに利用していることに驚いた。もう50年も前の世界だったが、未だにそういう世界があるのか、と疑ってしまう。
「海洋国家であるポリネシアでも‥」(第4章「広大な海とポリネシア」)
ポリネシアは地理的名称であるが、ここに「国家」概念を唐突に持ってきてしまっている。「ポリネシア」海域に住む人々を「民族」として捉えることは可能なのかもしれないが、少なくともこの海域を包含する「国家」は過去も現在も存在しない。もともと「国家」形成が成されてこなかった地域である。
岩波書店の「図書10月号」でも触れたが、「国家」「民族」「農耕民族」「牧畜民族」などの言葉が独り歩きしていることに危惧を持ってしまう。
とくに筆者である渡部潤一は多くの文章を書いており、影響力も広い。歴史学や考古学、暦学、文学、神話学等との接点の記事も多いと聞く。あいまいな言葉は、誤解と偏見と反発を招く。今の世の中、政治におおいに絡めとられる危険もある。
私も含めておおいに心したいものである。