ロシアのウクライナ侵略の論理と、日本が中国に進出した過去がそのまま二重写しに見えてしまう。
「日本民族を守る」だとか「帝国の利益を守るため」とか言っていたのが、そのうちに「アジア民族を解放」のためと言い出して、アジア各国に土足で侵略した。そこで傀儡政権を作って日本の利権を最大限確保した。その過程でいかに多くのアジアの人が犠牲になったことか。その挙句無理がたたり、補給線を断たれ、多くの徴兵された日本兵が捨て駒として無残に殺され、特攻を強いられた。国内も無差別の都市爆撃に晒され、原爆を落とされ、戦災孤児を生んでしまった。戦局を見誤り、多くの日本兵が中国にも東南アジアにも取り残され、悲惨な運命に翻弄された。
ロシアの「論理」を聞いていると、かつての「大日本帝国」がたどった道を思い出す。泥棒が家に押し入り、「お前の仲間は俺が気に食わないやつが多い。そいつはお前の家を乗っ取るかもしれない。俺が居座ることでそいつを排除できる。安い手間賃だと思え。これからもお前の土地を守ってやるから貢物を出せ」と開き直っているようなものである。ヤクザのみかじめ料の言いぐさと同じである。
もともと戦争は始めるのは簡単だが、収めるのがもっとも困難である。中世のように傭兵が戦うのではない。近代の「国民国家」樹立以降、自国民を煽りその「総意」という大義が近代・現代の戦争には必要である。逆に言えば自国民が納得しない終戦のした方を為政者はできないし、それは為政者がもっとも怖れることである。戦争を煽った為政者自身の首を締めることになるからである。
少なくともロシアの為政者は、戦争責任を問われたかつての日本の為政者の敗戦直後の屈辱を知り、ヒトラーの末路を自ら演出したからこそ、戦争を収めるのがますます困難になって、自分の首を締めているとしか思えない。停戦が実現しても経済破綻や国家の威信は地に落ち、ロシアという枠組が解体してしまうのはまぬがれないのではないか。
戦争は勝っても負けても苦しむのは社会を支えている民衆である。その民衆に飢えを強い、生命を差し出させ、みずからの延命しか考えない為政者の牛耳る政府や国家には退場してもらうしかない。
日本では、敗戦直後の処理の最中に東西対立・冷戦構造ができ、戦争責任が不問にされてしまった。A級戦犯が復活し、侵略した国への謝罪と反省がないまま、経済復興がアメリカの後押しで優先されて、賠償も放棄された。日米地位協定も含めて、他国からはアメリカの属国としか見てもらえていない。
そして昨今、「侵略が進出」に代えられ、「アジア解放の大義が復活」し、沖縄の集団自決は「自発的な選択」とされ、「自衛のための敵基地攻撃」が声高に言われるまでになった。
だがしかし、すべての戦争は「自衛」のために始まる。私はウクライナの人々の抵抗のあり様に注文をつける気は現時点ではない。それはウクライナの人々の選択が優先されることは確かだ。しかしながらいづれウクライナもまた「武器」と「戦争」という論理に振り回されるようにならないことを切に願っている。アメリカ・NATO対ロ・中の代理戦争と、消耗戦、核戦争への道筋は避けなくてはならない。武器だけではない抵抗もまた必要である。私はその抵抗に賭けたい。
日本が攻撃を受けないための最低限の前提は何か、それは一世紀近く前の侵略戦争の反省をきちんと行い、戦争責任を明確にし、真摯な謝罪をすることである。それ無くして相手国の国民を含めて信頼は得られない。信頼無くして平和共存はない。信頼されないまま武力を増強するとそれは自衛と称しても、他国には脅威としかうつらない。「何を今更」ということばは通用しない。まずは真摯に誠意を相手に見せなければ話し合いは進まない。
同時に日本は無差別都市空襲、原爆投下というアメリカの戦争犯罪の犠牲にもなった。この教訓もまた今の世界の紛争拡大局面の中で、強いイニシャティブを発揮できる糧にしてほしい。この動きがまた他国からの信頼の獲得に繋がる。例えば「窮鼠猫を噛む」北朝鮮の為政者には、日本に武器を向けると世界を敵に回してしまうという意識を持たせることの努力が必要なのではないか。その見通しをつけるのが外交の手腕である。
日本も今からでもきちんと戦争責任を明確にし、責任を取り、アジアの国々さらに世界各国に信頼されるようになってほしいと思う。残念ながらかつての大日本帝国と戦後日本は憲法上は断絶しているが実態は断絶していないのである。未だに首相ですら明治憲法下の初代伊藤博文から通算で数えていることでもそれがわかる。こんなことすらできないのでは他国からの信頼など得られることなどできない。「建国記念の日」があったり、「神の国」発言をする政治家が選ばれるようでは無理である。