Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「幕末の感染症と横浜」

2020年07月21日 14時02分58秒 | 読書

 横浜開港資料館の館報第148号を横浜市歴史博物館で手に入れて、昨晩から今朝にかけて目を通した。特集は「幕末の感染症と横浜」と題して吉崎雅規氏の文章が1~3頁にわたり掲載されている。

   

 1862(文久二)年7月、日本では麻疹が流行り始めた。8月の段階で江戸近傍では罹患者567,700人、死者は73,100人を共に超えたとの記録があるとのこと。
 さらに前年にはインドでコレラが流行し、8月には麻疹に続いてコレラが日本に上陸、日本橋だけで日に400~500名が死んだという記録もあるようだ。
 8月にはフランス公使の提案で日本の医師と外国医師との治療に関する情報交換を実施している。日本では蘭方医も漢方医も多忙を極めていた。
 この年の8月21日、薩摩藩主島津久光の行列と交錯したイギリス人が殺害された生麦事件が発生、翌年にはイギリス艦隊が鹿児島を砲撃、幕末から明治へ大きく時代が動いていく。
 アメリカ商人フランシス・ホールは生麦事件の一週間後に「東海道における暴行・殺人の興奮はやわらいでいる。コレラの蔓延にむより、一般の人々にとって事件の印象は薄くなった」と記しているとのこと。
 日本人にとっては目前の感染症の拡大への不安の方が大きかった、と筆者の吉崎雅規氏は記載している。

 徳川幕府は民政に腐心しようとしていたことは確かである。その政治体制や財政の基盤が崩壊しかけていたり、時代に対応できない制度であったことは確かであるが、民政を放置するような政府ではなかったようだ。
 いかにも民心に目を向けず、諸外国の圧力に右往左往していただけというほどの無能ではなかったと思う。幕府を倒した明治政府の視点から見た末期の徳川幕府の評価を鵜呑みにする危険をおおいに感じている。



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