Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「自省録」(マルクス・アウレリウス)

2020年10月16日 20時42分09秒 | 読書



 病院の帰りには横浜駅の地下街の書店に立ち寄ってみた。手にとってみたのが「自省録」(マルクス・アウレリウス、神谷美恵子訳、岩波文庫)。1956年初版で2007年に改版したもの。今年の7月に第23刷なので、売れているのであろう。
 この本、昔から幾度も書店で手にとって見たことがある。中学・高校の世界史の教科書や講義で著者のローマ皇帝マルクス・アウレリウスの名と著書の「自省録」のことは聞いていた。高校生・学生のころ、そして就職したころも書店で立ち読みはした。しかしいつも第1章の「祖父ウェールスからは、清廉と温和(を教えられた)。」「父に関しては‥」で購入するの辞めていた。
 本日訳が神谷美恵子であることをはじめて知り、そしてやはり一気読みとはならないものの購入してみることにした。

 立ち読みした時点で目についたのは第2章の、
「八、他人の魂の中に何が起っているいるか気をつけていないからといって、そのために不幸になる人はそうたやすく見られるものではない。しかし自分自身の魂のうごきを注意深く見守っていない人は必ず不幸になる。」
「九、‥宇宙の自然とはなんであるか。私の内なる自然とはなんであるか。後者は前者といかなる関係にあるか。それはいかなる全体のいかなる部分であるか。また君がつねに自然にかなうことをおこなったりいったりするのを妨げる者は一人もいないということ。」

 このようなアフォリズム的な文章というものは、あまりに一般化しすぎた言い方になると、自分の対立者にも言えるものであることが多い。しかもその時々の心境によって心に響いてくるものと響いてこないものがある。昨日は響かなくとも、本日共鳴できるものがあり、明日には「なんでこんなことに感激したんだろう」という思いが浮かぶこともしょっちゅうある。

 また当時のギリシャの人々がどのような思考をしていたか、わかる。多分われわれの思考と大差なく、いな、少なくとも私よりはずっと優れた思考力と洞察力を備えていたとおもっている。それを追体験することになる。むろん今の私にはとても理解できないこともあるはずだ。

 ときどきはめくってみるのもいいと思った。



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