Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

寺田しのぶ「第3回仏鏡画展」

2019年11月25日 19時16分51秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 知人に紹介された、寺田しのぶ“「仏画だっていいじゃない」第3回「仏鏡画展」”を妻と二人で見てきた。開催場所は鎌倉芸術館(JR大船駅下車東口より徒歩10分)

 仏画や仏像は幾度も見たことはあるが、「仏鏡画」というのははじめての言葉である。ご本人のホームページ【⇒http://miru.co.jp/teradashinobu/】にも記載はしていないが、今回の展覧会のチラシには「私の仏画は一枚の鏡、私が写しあなたが映る‥‥」と記載があるので、そこから鑑賞した人なりに定義をするしかないようだ。
 このチラシからすれば、作品を鑑賞してそこに見る仏画には観る者の姿や思いが映されている、ということになる。

 鑑賞者は作品に触発された自分の目で自分の姿を見ている、ということになる。当然のようでいて、しかし、人は自分の感想に自分が投影されていることには無頓着に作品を批評し、理解したつもりになってしまう。その作品から受ける印象に自分が投影されていると考える人は少ない。だがそれが出来てはじめて批評というのは自立し成り立つ、と私は思っている。。
 「私が写しあなたが映る‥」、言い得て妙である。私も観る・聴く・体感することにかけては、人一倍多くを体験して味わってきたつもりである。だが体感した作品から自分を自覚的に読み取ることは難しい。いつもそれを試みる努力をしているが、達成感はまだまだない。
 このことは、絵画作品や彫刻を見ても、映画やはたまた小説や詩を読んでも当てはまる。音楽を聴いても同様である。自分の感受性を研ぎ澄ませるには、このことにおおいに自覚的にならないといけない。自戒を込めて。

 さて、描かれた仏像の線はとても鮮明で、そして破綻なく、震えることもなく念入りに描かれている。その緻密さにまず驚く。作者の潜めた息と緊張感が伝わってくる。すべての作品がとても濃密である。確かに造形のゆがみや彩色の乱れが一部にないとはいえないが、その緊張感は体感していて気持ちのいいものである。いつのまにか作者の緊張感を共有している自分に気がつく。張り詰めた一心不乱の自分になってみたいという思いが湧いてくる。そんな自分が作品の中にいる気がしてくる。

 会期は12月1日までと短いが、いい緊張感を味わえると思う。

★「八大菩薩」から「観世音菩薩(紺地金泥)」(1918)




★「帝釈天」(1919)

 



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