Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「図書8月号」  その1

2021年08月05日 21時26分26秒 | 読書



 これまでに読んだ論考。

・[表紙]コラージュ                     司  修
「私は娘の幼稚園の秋の運動会で、走ることになりました。私は橋ってビリになる方法として、ひそかに兎のお面をポケットから足してかだり、飛び跳ねながらビリになりました。私は幼稚園でのコラージュをやりたかったのです。‥娘が恥ずかしがっているのを見て、兎の面を取れませんでした。」

・多様な学問のことば         紅野謙介

・セルビアから遠く離れて       高橋ブランカ
「ここ二、三十年のバルカン半島を思い描く外国人は、まず憎悪と殺し合いを連想します。幸いにも、その時代は終わりました。勿論、芸術はまだ暫くその痛々しい出来事をいろいろな方法で描写し続ける。しかし、もういい! 人生は止まってはいない。戦争を経験した人や目撃した人は、いつまでも過去に生きていないといけないのですか?一方、外国の映画視聴者(読者)はいつまでセルビア・クロアチア・ボスニアのこのような内容のみに興味をもつのでしょうか?あの国は他にいいものを沢山提供できます!」
 この個所には私は愕然とした。著者本人が戦争を書かないで、現在のさまざま現状を書くのはだれもが異存はない。しかし「いつまでも過去に生きていないといけないのですか?」と他の人が、あの戦争と正面から向き合い、国や政治や、民衆の在り方や、大量殺戮まで至ったことをえぐりだそうとするとき、あるいは未だに心のどこかにあの憎悪につながるものを見つけ出そうとしていることも大切な芸術活動の一環であると私はおもう。それを否定してしまってはいけない。他者の芸術活動から何を学ぶのか、この人にはその視点が欠落している。とても残念だと感じた。
「違う言語と異なる文化を知れば知るほど、自分が豊かになる。自分の書いている物も他の作家い出来ないディテールが多い。」
 後段にはこの文章がある。2個所の引用の落差があまり大きい。

・「語り」ということ          石丸幹二
「この六日、朗読音楽劇のアルバム「イノック・アーデン」をリリースした。イギリスの詩人アルフレッド・テニスンの物語詩に、ドイツの高名な俳優の依頼によってリヒャルト・シュトラウスが曲をつけたもの。二人は数年にわたりヨーロッパを演奏してまわったというから、この朗読とピアノのコラボレーションは好評だったにちがいない。‥。劇団で経験したきた大掛かりな舞台とは真逆の世界‥わずか三人の登場人物の試練多き半生に心を奪われながら、あたかも読み聞かせをしているかのような感覚で戯曲に目を通していった。‥グレン・グールド&石丸幹二による「イノック・アーデン」、お聴きいただければ幸いだ。」



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