本日は「演奏家が語る音楽の哲学」の第3章を読んだ。第1章「音を奏でる人類」が楽器起源論、第2章「「音楽そのもの」との交歓」が音楽芸術論とすれば、第3章「音楽に表れるのは個性か普遍性か」と演奏家論といったところ。
第1章はちょっと不消化な記述もあり、少し難解でもあったが原初の人類から古代から続く人類と音との関係が述べられている。ホモサピエンスの歴史についても最新のものを取り入れていたり、折口信夫・中上健次・中沢新一を引用したり、なかなか博識である。
第2章ではデュシャンの「泉」から問題提起が始まり、ジョン・ケージに研究し、中沢新一も第1章に続いて引用され、白川静・内田樹に言及するなど刺激的な記述が続いた。
第3章でも、中井久夫も引用されている。読書の範囲が私と重複しているところもあり、それなりに親近感が湧いてくる。
少々長い引用になるが、「個性的」ということについての記述を引用してみる。私にはよく理解できる言い回しである。
「自分らしい=個性的と思われた働き方は、実は組織にとって、いつでも労働力を切り捨てられる都合のようい仕掛けでし泣かなかった。、そのようにして得られる仕事が、まったくもって没個性的な作業であることはいうまでもない。個性的であることに強迫観念まで持たされてしまった世代の中には、取換えの効く存在として自分が扱われることに耐えられなものも多い。‥思い描いた理想と現実との狭間で混乱し、自身の存在価値への疑問から心身のバランスを壊すものまでいることはなんとも痛ましい。‥やみくもに固定的であることを礼賛するような教育だけはご免こうむりたいものだ。」
「世界を相手にする音楽家たちは楽譜を丁寧に読み込み、その解釈において誰もが納得する普遍的な領域にまで達しないことには「人前でなど演奏できない」と考えている。自分の奏でる音楽が個人的な主張や、己が感情の発露であるなどとは想像すらしていない‥。彼らの演奏は音符の向こう側から語りかけられる音楽自身の発する声に、謙虚に耳を傾けたっか奏でられたものだ。自分がどう演奏したいかなどという低次元の欲求を超えたところにその音楽は成立している。私がどうしたいかなどではなく、記された音符の一つ一つが「どのように」演奏されたがっているか」を読み取ることがなによりも優先されるべき課題であることを彼らは自覚している‥。‥ならば個性なしに紡ぎ出されるその音楽は、誰がいつどのように奏しても同じであってしかるべきだろうか。同一作品からは、楽曲唯一の藁間欲しき姿が浮かび上がるのだから。ところが、そんなことがあり得ないことは誰もがしっている。どうやら《個性》の秘密はこのあたりにありそうだ。‥本物の個性というものがあるのだとすれば、それはあえて独自のものをそぎ落とし、それでも最後に炙り出されてくる他者との違い、といえそうだ。‥音楽においては、楽曲のあるべき姿をそれぞれの奏者が探し出す過程で結果的に生じるものが、それといえる。自ら恣意的に示そうとする他者との違いは、単なる奇矯な振る舞いとしか映らない‥。」