以下つまらない話をつらつらと‥‥。
実に久しぶりに指先を紙で切ったようだ。午後遅くバスに乗って出かけたのだが、バスを終点の横浜駅で降りて、地下街に備え付けてあるアルコールで指先の消毒をした。アルコールを噴霧した瞬間、思わず飛び上がってしまった。周りの人も驚いたかもしれない。
指先を見ると少し血がにじんで2センチほどの長さの細い傷が出来ていた。形状からして紙で切ったに違いない。退職者会ニュースの原稿を読むために打ち出した紙を折ったときに傷をつけたらしい。
大学生の頃は謄写版の紙をめくるとき、そして1500枚をわずか30分で配布し終わる学生向けビラの配布時によく指を更紙で切った。
仕事が現役のころは組合のビラや新聞を輪転機にかけて作っていた。印刷が終わったものを揃えたり、職場ごとに枚数を揃えて発送したり、ビラを職場に撒いたり、そんな作業の時にときどき紙で指先を切ったものである。
しかし退職してからはそのような傷を作った記憶はごく数回しかない。輪転機の性能もよくなり、給紙のために紙をしごいたりする必要もなく、出来上がりも紙がかなり揃っているのでしごく必要がなくなっていた。
紙で切ってしまう傷は、ほんのちょっとの油断で出来てしまう。ピリッとしたときはもう血がにじんでいる。
今回は意外と長い傷であった。便所で石鹸で手を洗っても痛いし、アルコール消毒は無理。ということで百円ショップに駆け込んで、指先用の防水の絆創膏を購入した。
傷は痛みが少しあるが、痛みよりも「懐かしい傷」という感想のほうが先に立った。何となく愛おしいような傷である。
帰宅して傷用の薬を少しだけ塗って再び絆創膏を貼った。昔の自分を思い出している。私は小学生の低学年までよく転んで膝を擦り剝いて当時の「赤チン」をよく塗った。絆創膏などはなかったが、時々は包帯を巻いた。その不器用さは娘に伝わったようだ。娘もよく転んで擦り傷が絶えなかった。
私は小学校も中学年になると転んで怪我をすることはなくなったが、大学に入って紙で指を切ることが常態化して、また赤チンのお世話になった。
ここまで書いて、ふと思い出したのが、たん瘤。現役時代は切り傷と同時に、職場の倉庫や書庫で棚の角や段ボールに頭をぶつけて小さなたん瘤をよく作った。さらにときどき、酔っぱらって道沿いの電信柱やコンクリートの壁に頭をぶつけて少しばかり大きめのたん瘤をこしらえた。
電信柱にぶつかったときはかなり大きなたん瘤であった。娘には電信柱にぶつかったとは恥ずかしくて言えなかったので、建物の外階段にぶつかったと咄嗟に言いわけした。しかしどちらもおなじように恥ずかしいことに変わりはなかった。小学生だった娘もそれはうすうす感じたのではないか。しかし黙っていてくれた。
擦り傷から切り傷へ、そしてたん瘤へ、それなりに怪我とは縁が切れない人生であった。小さな傷で済んで良かったと思うべきなのだろう。