理解できたかと問われるとまったく自信はないが、とりあえず読み終えた。ただしこの「シュールレアリスム宣言」というのは、「溶ける魚」という作品集の「序文」として書き始められたのだが、それが「宣言」へと変貌したものである。
シュールレアリスムは1920年代以降の大きな芸術運動となっているが、そのおおもとの文章とされてきたものである。
いつものように覚書としていくつかを引用。
「自由というただひとつの言葉だけが、いまも私をふるいたたせるすべてである。思うにこの言葉こそ、古くから人間の熱狂をいつまでも持続させるにふさわしいものなのだ。それはおそらく私のただひとつの正当な渇望にこたえてくれる。‥想像力こそが、ありうることを私に教え‥。」
「狂気へのおそれから、私たちは、想像力の旗を、半旗のままにしておくわけにはいかないだろう。現実主義的態度についての告発は、まず、唯物主義的態度を告発したうえでおこなわなければならない。後者はそもそも、前者よりも詩的なものであって、なるほど人間の側の畸形的な高慢さをふくんでいるにしても、なにか新しい、より完全に近い、失墜といたことを前提にしているわけではない。‥この態度は、思考のある種の昂揚と両立しないものではない。‥現実主義的態度のほうは、‥実証主義の影響をうけているわけで、私にはまさしく、知的および道徳的なあらゆる飛翔に敵対するものだと思われる。それは凡庸さと、憎しみと、つまらぬうぬぼれとの産物だからである。」
「私たちはいまなお論なりの支配下に生きている。‥いまだに流行している接待的な合理主義が、私たちの経験に直接依存する事実をしか考慮することをゆるさないのである。‥経験もまた、直接的効用によりかかり、良識の監督をうけている。文明という体裁のもとに、進歩という口実のもとに、当否はともかく迷信だとか妄想だとかきめつけることのできるものはすべて精神から追いはらわれ、作法にあわない心理を探求方法はすべて禁じられるにいたったのだ。」
「フロイトが夢に批評をむけたのは、しごく当然のことである。じっさい、心の活動のうちのこの無視できない部分が、まだこれほどわずかしか注目をひいていないというのは、うけいれがたいことである。夢がいとなまれているかぎりでは、どこから見てもそれは継続している。まとまった組織体の形跡をとどめている。ただ記憶のみが、不当な推移をわがものにして、夢をばらばらに切りはなし、場面のつなぎなどは考慮のほかい、夢そのものによりもむしろ、いくつかの夢のシリーズを私たちに見せているのだ。」
「夢が何か系統だった調査に付され、これから決定されるはずのもろもろの手段によって、ついに完全なかたちで私たちに理解されることになり、夢の曲線が類を見ない周期と幅とをもって伸びひろがるようになったとたん、神秘ならざるもろもろの神秘が、この大いなる<神秘>に道をゆずるだろうと期待することができる。夢と現実という、外見はいかにもあいいれない二つの状態が、一種の絶対的現実、いってよければ一種の超現実のなかへと、解消されてゆくことを信じている。その制服こそは私のめざすところだ。」
背景として、当時の文学など作品などの行き詰まり、造形される人物の類型化などが挙げられている。 そして論の通底にあるのが、「作為の排除」と「偶然の尊重」、という理解を私はした。しかし私は、作為なくして芸術はあり得ない、と思っている。俳句の二物衝撃というものもあるが、作為なくして衝撃の効果もあり得ない。偶然についてもいくつかの偶然を選択したうえでの効果を比べることで、芸術して成り立つと思っている。
「作為の排除」と「偶然の尊重」は、普遍性の欠落へとつながり、個へのこだわりという名の孤立への道である。普遍性への志向を捨て、個へこだわることは、先細りと忘却による消滅である。シュルレアリスムの限界を宣言そのものが予見していたのではないだろうか。