本日読み終わったのは「江戸の絵画 八つの謎」(狩野博幸、ちくま文庫)の最後の第8章「東洲斎写楽 「謎の絵師」という迷妄」、あとがき、文庫版あとがき、解説(辻惟雄)。
第7章の北斎を厚かった章で、富嶽三十六景の版元として有名な永寿堂・西村屋与八が富士講と深くかかわりがあり、富士講の信者をターゲットにした企画だったのではないか、というのはとても魅力的な指摘だと感じた。北斎自身も富士講とかなり密接な関係を保っていたのであろう。
第8章の東洲斎写楽について、写楽が阿波藩のお抱え能役者齋藤十郎兵衛であったという指摘となっている。解説の辻惟雄はこれを「もはや疑うことは困難」と賛意を表している。
なかなか刺激的な表現があり、現代社会批判としては少し論が飛躍しすぎている側面があり、その延長で8人の絵師にまつわる謎解き事態に疑問符が突いてしまうのが惜しいような気がする。
以下の指摘はとても重要な指摘だと思う。「古典作品はそれが生まれた時代以降に流行する思考・思想・思潮を援用してはならないとする立ち位置はね日本金星文学研究を飛躍的に高められた中村幸雄博士が標榜した古典研究の基準といえる。博士はこれを「表現の時代性」という言葉に集約した。」(文庫版あとがき)
この指摘は私の頭の中ではすぐに納得したものの、実際に作品を鑑賞したり、評価するときに厳密にこのことを実践するのは極めて難しいという思いも同時に湧いてきた。何しろヨーロッパと日本の美術の同時代的な切り口すら曖昧な知識しかない私が、作品が作られた時代の社会や思想を想定することはとても無理である。現代の思想の排除すら困難である。
さらにいえば、現代という時代の眼をとおして作品を手がかりに現代を語ることは「鑑賞」「批評」のあり方のひとつでもある。これは批評と、学問的な評価との違いである。私は過去の作品を手がかりに現代の思潮や今の時代の要請や、自分の問題意識に沿って現代を語ることは大切な批評のあり方だと思っている。著者はどうのように思っておられるのだろうか。