本日購入した本は、「田中正造文集(一)」&「同(二)」(岩波文庫)。
先月8月15日の敗戦の日に偶然のように田中正造の「辛酸入佳境 楽亦在其中(辛酸佳境に入る 亦楽しからずや)」の文章を思い出して、このブログに掲載した。その他にもいろいろと田中正造の言葉を覚えようとした50年前のことを思い出して、9月に入ってから神奈川大学の生協にこの2冊の本を注文していた。
本日ようやく手に入れた。最寄り駅の喫茶店で第1巻に目をとおした。
じっくり読むというよりも、懐かしい言葉を探すようにパラパラとめくった。
1901(明治34)年10月議員を辞職し、12月に明治天皇に直訴擦る直前までの手紙や寄稿した文章を読んだ。
「明治15年集会条例改正の影響」と題した文章には、その影響として、
「集会条例改正の結果より出づ、一を「政治家に向かって窘窮迫害する圧政政略」となし、他を「教育方針の姑息抑制主義」となす。」として論を進め、特に教育について「教育の方針に至りては極端なる消極主義を採り、厳密なる規矩を以て制し、準縄を以て御し、政談を聴くべからず某会に賛同すべからず、政論を為すべからず、憐れむべしその教員生徒たるものは、その人間天賦の自由を剝奪せられたるものなり、卑屈無気力の青年‥」と喝破している。
現在の政治情況、若い人たちの教育状況を見るにつけ、その炯眼に驚く。
1900(明治33)年2月の第14回議会では、「亡国に至るを知らざればこれ即ち亡国」の儀につき質問書を提出。
「一民を殺すは国家を殺すなり 法を蔑(ないがしろ)にするは国家を蔑にすねるなり 皆自ら国を毀(こぼす)すなり 財用を濫(むさぼ)り民を殺し法を乱して而して亡びざるの国なし、これを奈何(いかん)」
同じ年の11月の書簡には、
「道徳の人 善良の人といへども、意趣弱ければ道徳の実を挙ぐるに至らず。善人にても善事を為す能はずして、所謂毒にもならず、薬にもならず、日蔭の紅葉にて畢るのみ。」
1901(明治34)年2月の書簡は、次のように記されている。
「“おほ雨にうたれたたかれ行く牛の車のあとやあはれなりける 正造”我々御同前は正直にして、ただ荷物を運ぶ牛の如くです。斯く骨を折りても大雨の日の車のわだちは、忽ち跡形も消失せて、後来に蹟(あと)を止めるほどの功をしはなく、誠に雨の日の車の蹟との如し。憐れなる身の有様なりとの意を申せしものに候。但し天は必ずこの牛に組せる事と存じ奉り候。」
同じ年の9月には「足尾鉱毒問題」とした文章の書き出しでは、
「外交の事固(もと)より重し、しかれども内地の紊乱(びんらん)恰(あたか)も無政府より甚だしくして、妄りに外交を云ふ者あらば、これ自ら斃るるの外なきのみ、‥」とある。
内政で窮地に立つと外国訪問で「円」をばらまいてきたここ十数年の政府のありようはなんら進歩せず、明治の政治と同質のものであった。
直訴12月10日の直前の7日の手紙にある文章の中に、鉱毒の原野を評して
「毒野も、うかと見れば普通の原野なり。涙を以て見れば地獄の餓鬼のみ。気力を以て見れば竹鎗、臆病を以て見れば疾病のみ」とあった。
2番目の「亡国に至るを・・」は有名、3番目の「意趣弱ければ・・」、4番目の「おほ雨・・」の歌、最後に引用した「毒野も・・」の前半は学生時代に読んだ記憶が微かにある。どのような本で読んだかは記憶にないのだが、50代のころにたくさん廃棄したり、古書店に持ち込んだ中に在ったかもしれない。
次回は直訴状以降を、一気にではなく折に触れて読んでいきたい。