Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「万葉の歌びとたち」の山上憶良論から

2022年03月08日 22時07分02秒 | 読書

 第Ⅲ章の「憶良の生涯」、「再説「憶良渡来人論」」、「風土のない詩人」、「人間の悲しみ――山上憶良と法隆寺塑像」は山上憶良論となっている。中西進の文学評論は、現代に通じる知識人論としてもおおいに参考になる。知識人が時代とどのように格闘したのか、またその必然は何なのか、考える契機ともなる。同時に中西進の現代という時代に対する、耳を傾ける価値の十分にある批評としても読める。

「憶良は狷介な人物ではない。旅人と性格は対照的だが、独善的に排他的な態度をとることはできない、心やさしい詩人であった。‥独自の境地を持ちながらも、座興のよき提出者であったところに、憶良の性格と風貌が示されている。」(「憶良の生涯)」

「73歳の老国司が帰京したとて、新しい職があるわけではない。従五位下としての位田からの収入はあったろうが、すでに退役の身であった。‥憶良の名を不朽ならしめる傑作の数々、「貧窮問答の歌」「沈痾自愛の歌」‥などは、すべてこの時期につくられている。無冠の人間憶良となった時に、世間の人間模様は明瞭な姿を見せたといえようか、省察深い作が「山上憶良」によって歌われている‥。」(「憶良の生涯)」

「“世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ歳にしあらねば(五893)”「貧窮問答の歌」に添えられた短歌である。‥憶良をして思わせるものは、自らを「士」の矜持において支えようとする意志である。この短歌で「鳥にしあらねば」というのはことばづかいとうらはらに、わが地上性を確認したに過ぎないともいえよう。‥地上的意志者の生涯の回顧は、名を立てる事もなく空しく死んでゆく悔恨にさそわれるものであった。憶良は最後まで鳥になることを拒否しつつ、壮絶な戦いを挑みつつ、死んでいったといえるだろう。功なり名遂げた筑前の国司の後、自然に死へと歩み去っていったのではなかった。」(「憶良の生涯)」

「具体的な風土を、憶良は持たないのである。眼前の原風景というべきものは、ほとんど歌われなかった。一つには自然よりも人間の生なるものに、より多く関心をいだく詩人だったことにもよっている。人間におけるIとは何か、老いとは、死とは何か、彼は執拗にそれを問い続けている。‥もう一つの風景は確かな存在として見据えられたのか。4歳の(百済から)の離郷はこれも不可能にした。風景は壮年の中にしかない。原風景を持たなかった詩人は、想念の幻風景をしかもてなかったのだし、その幻風景とて確かなものではなかった。‥幼少の日の離郷者である詩人の運命として、このことを考えざるを得ない。」(「風土のない詩人」)

「柿本人麻呂は全身の力をこめて王権を賛美し、また壮麗な葬送の歌を死者に送った。大伴家持は近代詩にも通じるような繊細な感受性をもって、心の深奥の痛みや幽遠な自然の姿を歌った。それに対して憶良は、世間の無常を歌う。‥こうした憶良の姿は、あまりに仏教的だといえる。‥憶良はさまざまに仏法にふれて語ってはいるけれども、その中で固有名詞をもって登場するのは、釈迦と維摩と弥勒だけなのである。」(「人間の悲しみ」)

「法隆寺の五重塔の初層には‥東面が維摩吉像土、北面が涅槃像土、西面は分舎利仏土、南面は弥勒仏像土である。‥この四面は‥維摩における病、釈迦における死および死後が主題として一貫している。病-死-死後という主題に大きな関心があったことを示している。憶良が仏法に心を寄せ、多くの仏典を知っていたであろうのに、その中から維摩と釈迦と弥勒とをしか取り上げていないことと、塔本にこの三像を中心として仏土が描かれていることとは、果たして無関係なのであろうか。‥釈尊のようには実在が荘厳化しえない、生身の苦悩といってよかろうか。天平という、人間的苦悩を正視するようになった時代の悲痛な造形であり、それがとりもなおさず、憶良晩年の文学であった。‥痛ましい魂の像が、憶良にも塑像群の中にも見えるのである。」(「人間の悲しみ」)

      



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