フランスから戻った坂本繁二郎は久留米にもどり、のち八女にアトリエを構える。そこで馬に出会い、生涯馬を描き続ける。
私は初期の馬を描いた作品ではこの「放牧三馬」(1932、石橋財団アーティゾン美術館)がお気に入りである。
「他者におもねることのない気品」があり、確かに生きている。「存在そのものに価値がある」と自己主張しているように思える。
2006年の図録では、当時坂本は「軍馬の関係からせっかくの馬の色も赤茶の一色にほとんど統一されて仕舞って居る。たまたま異色あるかす毛や月毛を見出したときのうれしさ、私は馬のきりやうを人伝に聞き求めてあちこち尋ね歩いて居るが‥」と述べていたとのことである。
戦争で馬にまで個性がなくなっていくことに坂本は嫌悪感・違和感を抱いていたと思われる。
同時に最晩年の1969年に「九州の明るい季節の変化に富んだ自然、のびやかな風土に、馬の躍動する姿態がぴったりして、私はもう馬に取りつかれてしまったのです。人も描きたかったのですが、いざモデルに頼むと、向こうが意識してしまって、最初の感じが抜けてしまいます。それが馬にありません。」
さらに「エメラルド・グリーンを主張に、その配色の度合いで“物感”を出し、単純化した色調を駆使することによってこそ、見る人に深い存在感をしめすことを研究課題に」したと語っている。
坂本はこの作品を描いた頃「写生画の部には入れられないのかもしれません。しかし写生して描いた画であることには違いありません」と述べている。
どのような解釈も自由ではあるが、人によっては西洋画の三美神、あるいは仏画の三尊像に模したりすることもあるそうだ。しかしそれは作者にとっても迷惑ではないか、或いは穿ち過ぎと私は思う。
坂本繁二郎には「水から上がる馬」(1937、1953)など動きのある馬の作品もある。そしてそれも魅力的である。しかし私にとっては静かにたたずみ、おのずと存在感のある馬や牛や静物の作品が好みの作品である。
帰国した1924(T13)年頃、すでに戦争の足跡が迫ってきており、この「放牧三馬」の描かれた1932(S7)年には5・15事件で犬養毅が暗殺されるなど全体主義・軍国主義が社会を覆っていた。そのような戦争に傾く世相は坂本にとっては厭うべき世相だったのだろう。馬にすら個性がなくなっていく時代を敏感に嗅ぎ取っていたと思われる。
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