「万葉の歌びとたち」の第Ⅲ章は山上憶良論が中心であるが、最初の文章は「天平の四歌人」。これは私にとっては新鮮な論考である。山部赤人、高橋虫麻呂、大伴旅人、山上憶良の4人についてまとめている。
いつものように覚書として。
702(大宝2)年、持統上皇が亡くなり、壬申の乱の記憶のない戦後の生まれの文武天皇の親政となった。補佐役が藤原不比等。遣唐使が再開された。持統天皇のもとで天皇賛歌を歌った前期万葉の柿本人麻呂や高橋虫麻呂歌人の時代から、8世紀の万葉歌人は新しい歌風をもって登場してきた、と指摘している。
「赤人には、もう対象と一緒に大声で泣いたり笑ったりすることが出来なくなっているのである。全身的な歌い方が人麻呂の特徴だったのに、赤人にはどこか知的に冷めたところがある。文化の熟成が次第にうんでいった、心のかげりであった。“春の野にすみれ摘みにと来しわれそ野をなつかしみ一夜ねにける”というように、野の風情のあまりに野宿するといったことはただごとではない。管理社会からはみ出してしまった孤独感がある。赤人はそれゆえに詩人であった。」
私はこの引用の歌に、中国的な詩の世界、士太夫の振る舞いの縮図を感じたが、外れているだろうか。筆者の指摘のように大きく世界が転換を始めたようだ。
筆者はさらに大胆な推論の上に高橋虫麻呂論を展開する。虫麻呂が東国の下総あたりの俊才として都に出て、挫折の上に、「貧しい現実の代償として夢想にふけりながら、人間の愚かさを見てしまう虫麻呂は、天平時代の庶民の代表のようにも思えるし、この時代の下層の人々の心のいたみを象徴するものと思われる。万葉集にはそうした人々の歌が無数におさめられているが、作者としての名を記されるまでもなかったこれら歌群に、詩としての輝きを与えると虫麻呂の歌になる。才知のゆえに、虫麻呂のいたみは余計大きかった。」
「(大伴旅人は)赤人や虫麻呂と違って上流階級に属した貴顕のひとである。(彼らとは)はるかに隔たった世界にいる。しかしそれなりにまた彼ににも大きな苦悩があった。ほとんどが九州大宰府の帥として任地にあったとき詠まれた‥。望京の念はひとしおなるものがあった‥。いくら根かってもかなえられる帰京であってみれば、現実の環境の中に没頭して憂さを忘れようともした。貴族には貴族なりの苦悩や悲嘆がある。赤人や虫麻呂ばかりが寂しいのではない。旅人の中に区別を見出そうとすれば、悠揚迫らぬ風格にそれがあろうか。しからば余計寂しいことだともいえる。」
「(山上憶良は)最晩年の数年をのぞいて多く中央朝廷にあり、天皇や皇子に歌を献上する生活を送るが、彼の名声を今日に伝えるのは、九州での作、ならびに帰京後の2年ほどの作である。前半生の歌とはおよそ異質であり、広く万葉集全体にとっても特異なものであった。ひとことで言えば、人間としてあることの苦痛を、彼だけが歌にしたといってよい。‥天平の文化は仏教を受け入れ、絢爛と開花したが、歌人たちはこれを魂の問題として受容した。そのときに憶良の人間たることの苦痛が万葉集をいろどることとなった。」
「赤人も虫麻呂も、律令体制の冷たい官僚機構の中で疎外された心を歌い、旅人も政治的葛藤の谷あいに暗く沈んだ心情を歌に託した。歌に向かったとき、人間の真の心は正直に吐露されるようである。だから彼らの人間像は、当時のだれでもが持っていた本当の姿だったということも出来よう。」