正月三日、いわゆる三が日で正月休みも終わる人も多い。晴れやかに着飾ったり、家も客人などを迎えたり、とよそよそしい晴れやかさのあった元日や二日がおわり、4日の仕事始めといわれる日を翌日に控え、日常に戻るために残された24時間。
現役の頃はこの24時間が愛おしかった。ふと自分一人に戻る時間でもあった。自分に一人になって初めて次のステップである職場の仲間と顔を合わせる自分に移行できる準備が整うのである。
最近では三〇日、大晦日、一日、二日と96時間妻や家族と顔を合わせ続けて、ふと自分一人に戻りたくなる日でもある。この一日がないとさらに四日以降も妻と顔を突き合わせなくては一年が終わらない。何日かに一度、丸1日一人にならないと妻との会話もだんだんとげとげしくなることもある。正月で言えば三日の日というのは、危機の日でもある。危機を乗り切らねば、継続はありえない。
三日の日には、それこそ一人でフラッと繁華街のいつもの喫茶店に行ってみたり、本屋で立ち読みをしたり、趣味の何かに没頭したりする。妻は妻で夫のいなくなったのを幸いにやはり何かの趣味に没頭する。それがつつがなく済んで、四日の仕事始めなり、いつもの日常が取り戻せる。
そんなふうに三日というのはとても大切な日である。
★一人居や思ふことなき三ケ日 夏目漱石
★三日はや木綿のやうな風とゐる 野木桃花
第一句、この場合は「一人居」なので妻の存在はない。しかし「ハレ」の日も「ケ」の日もない一人居の漱石といってもやはり三日はもの思う日の始まりである。人事に振り回される日が翌日に迫っているのを自覚している句である。もの思うことのない三が日、というのは結局はありえないのである。四日のことを思うと憂鬱になってしまう三日の日なのである。
第二句、「木綿のような風」をどう解釈するか。さんざん悩んだ。私は「普段着の日常」と解釈してみた。ハレの日の元日・二日を過ぎて、日常にもどる日、絹の晴れ着から普段着に着替えて、日常の風に吹かれている作者の感慨。元日・二日と三日の落差が市井の人の生活意識を支えている。