以前にもこのブログに掲載したことのあることを再度記載してみたい。当時の文書ではなく、本日思い出しながら再度記載してみる。
私は昭和26年生まれである。西暦では1951年。まだまだ戦争の影をひきづっていた頃である。物心ついた時には年号というのは当然意識することは無かったが、「昭和26年生まれ」、「戦後6年目の誕生」というのは区別なく使用していた。どちらかというと、前者は畏まった言いかた、後者は隣近所の人々との会話の中で使っていた言いかたのような気がする。
「昭和〇〇年」は公式、「戦後△△年」というのは日常使用、こんな区別でもあったのだろうか。また函館から東京の親族のところに1959年小学校2年生の夏休みに遊びに行って、前年の年末に出来た東京タワーに連れて行ってもらったことがある。そのときに「戦後13年の日本のシンボル」などという言葉を案内の女性が発したのを覚えていて、夏休みの宿題の日誌に書いたと思う。
この「戦後」という年号は、1970年、昭和45年、戦後25年までは常に使われていたと思う。「三年号併存期間」と私は勝手に決めている。人々の間では頭の中で「戦後〇〇年」に換算して使用していたように思う。それほどあの1945年・昭和20年が、それまでの死と隣り合わせの破壊と恐怖の意識と、それ以降の混乱と回復の時期の境界として強く意識されていたはずだ。
中・高校時代も併用が当たり前だった。大学入学は1970年・昭和45年であったが、住民票の手続きに市役所に行くと「戦後25年の仙台」というような横断幕があったと記憶している。学籍番号も「45S-〇〇〇」だった記憶がある。Sは理学部。
年号表記については学生運動も無自覚で「45前期自治会」などという表記をビラや立て看に使用していた。卒業までの5年の間に「戦後」という文言は少なくなったが、意識が希薄になったとは思えない。少なくとも「戦後文学」は私どもの一つの思想の拠り所でもあった。
「もはや戦後ではない」というのは、1956年・昭和31年の「経済白書」のキャッチフレーズだが、これは朝鮮特需が終わり、復興景気も期待できない、という悲観的な意味で使われていたという。戦後の新しい経済の出発を待ち望むという気分を作りたかったのかもしれない。それが高度成長を予想し、独り歩きして反対の意味になったという。
1970年代後半になってようやく「戦後」という意識が薄れかけ、それに政治家が乗じた。中でも中曽根康弘元総理大臣の「戦後政治の総決算」という言葉で「戦後」という意識は葬られたように見える。国会議員の意識からも意図的に消えたようだ。「戦後」という価値体系が余ほどお気に召さなかったのだろう。
しかし時間の尺度というものは、政治家や官僚がコントロールしようとしても、人々の意識は変えられない。それを「使ってはいけない」と強制することはできない。「戦後〇年」という意識は私はとても大切な時間の尺度であったし、それを少なくとも30年以上も使い続けた人々の意識は大切だと思う。
1945年・昭和20年という起点以前と起点以降は断絶がある、という意識は戦後に培われた価値というものが、戦前よりも優れていたことのほうが多いということの証しでもある。「戦後」という言葉を葬り去りたい人々がいる限り、私はこだわってみたい、と中曽根元総理大臣が影響力を持っていた時期、こだわって「戦後〇〇年」という言い方をしたことがある。それこそ「古い人間とお思いでしょうが・・・」と開き直ってみたかった。
「戦後78年」、今一度「戦後」にこだわってみたい。