9月の下旬、朝から気持ちの良い秋晴れの日となった。湿度が低く、風もない。本日は今年初めて赤蜻蛉が建物の南側の芝生の上を飛んでいた。1匹だけ。しばらくベランダから見ていた。止ることはなく、せわしなく飛び回っていた。
蜻蛉というのは、人の目には蝶のように飛び方が不規則である。蝶のように細かい動きではない。しかしス~ッとまっすぐに飛んでから、不意に方向を変え、短くホバリングする。まるで何かをためらっているかのように。この不規則性が見る人を飽きさせない。人は複雑な動きでもそこに規則性を見つけると、その時点で見ることに飽きてしまうものである。
★赤とんぼ洗ひざらしの靴二足 山内てるこ
★赤とんぼ死近き人を囲み行く 永田耕衣
第1句、靴は幼児の靴と想像。むかし隣との境界の竹格子の尖端に靴を干していた。十代の少年少女の運動靴よりも通学前の子の靴の方が赤蜻蛉には似合う。ただし残念なことに、不思議なことにきれいな靴よりも履き続けて汗のにおいの沁みついた靴の方が蜻蛉は寄ってくる。この句の赤とんぼは靴ではなく、竹に止りたいのであろう。
第2句、「死近き人」とは病人等ではないと思う。歩いている人を囲んで赤蜻蛉が人の進む方向に同じように移動していく。それも蚊柱ではなく、赤蜻蛉である。赤蜻蛉に囲まれているその人は、ひょっとしたら死が近い人なのかもしれない、という生の不安、あるいは「ちょっと先は闇」を予感させる。そして赤蜻蛉は作者にしか見えない、囲まれている人には見えないのかもしれない。なんとも怖い句である。作者は阪神淡路大震災にも遭遇し、住居を喪っている。そんな状況を反映した句なのか。
もっと穿った読み方をすると、この赤蜻蛉に囲まれた人は、読む人が心の中で怨嗟している人かもしれない。そこまで読んでは、読む人の心が怖い。作者である詠む人はそんな心は持ち合わせていないと思う。詠む人と読む人、心の在り様がすれ違う。
さて、本日は親の住んでいる部屋に出向き、窓をいつものとおり開け放し、部屋の空気を入れ替えた。そして間もなく退院するのに併せて、布団を干し、シーツを洗濯しして干した。
妻は同様に我が家の布団干しとシーツの洗濯。