Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

自句自解(9) 萩

2010年02月15日 00時01分01秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★細き雨たっぷり溜めて萩垂れる
★萩散りて池深きより静まりぬ
★萩散りて緑の水面を染め分ける
 夏の雨と違い秋の雨はものさびしいもの、と歳時記には規定されている。私にはこの断定はちょっと首を傾げたくなる。こんな規定をおしつける俳句の世界こそ、俳句の停滞をみずから招来しているのではないのかと思う。
 それはそれとして、入院前には激しい梅雨明けの雨が印象に残ったが、退院後の療養期にはしっとりした雨が身をつつむように思えた。土日は無論、それ以外にも平日は一日休むことも幾週間が続けた。そんな折、雨が静かに降っているのを自宅の寝室から眺めていると、気持ちが静まってきた。時折団地の中を傘をさしてゆっくり見て回った。
 団地の中に石垣があり、上から萩が気持ちよさそうに垂れている。黒い石垣に緑の葉と赤と白の萩が並んで、雨を溜めて多少の風にはびくともせずに重く垂れている。そんな風情をじっと眺めるなんてことはこれまでなかった。
 また池があり、水の循環もなく静かに深い緑色によどんでいる。そこにも萩が垂れていた。
 情景としてはどこにでもある情景だが、回復期の私には静かな秋に、存分に身に委ねることができた。「池深きより」がとても気に入っている。

アッツザクラ

2010年02月14日 14時57分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日までの寒さも和らぎ、のどかな日和。午後からは雲が多くなってきた。本日は私はまったくの休養日。
 先週購入した鮮やかな赤のアッツザクラが私の部屋で咲いている。南アフリカ原産のロドヒポキシスという学名があるようだ。砂礫地に咲く強いユリ科の植物。4月以降に咲く。すっと伸びた葉、6枚の花弁、しかしおしべ・めしべは見えない。
 「玉砕」のさきがけとされた日本兵約2400名と米兵600名という戦争の犠牲者を出した、アリューシャン列島の島。その島の名と鎮魂のために名づけられ、戦中の1943(昭和43)に山野草を扱う店で売り出されたものらしい。ものこの話が本当なら、店主はどのような思いでこの花を売り出したのだろう。鎮魂にふさわしい赤の色であることは確かだ。
 さて以下は、かなりの強引な飛躍と思いつつの雑感をちょいと‥。
 「玉砕」ということばを思い出し、偏狭で野蛮で横暴極まりない国家思想の犠牲者は、戦後65年たっても、戦争を清算しきれていない「日本」という国をどうながめているだろうか、と考えた。本当に日本という国は再生したのだろうか。いつもこの言葉を問い続けたいものだ。
 たとえば、白村江の敗北以来中国の襲来におびえつつ、王権の強化を図った兄=天智から王位を奪取し、強力な王権をめざした天武による天皇制の確立以来の「帰化」と言う言葉が、あの戦争を経てもまだ、現代まで日本の国籍法を縛っている。
 民主党の政権、発足したばかりだがここまで手をつけることができるか、長期的な展望をもって対処してもらいたいものだ。「官僚」批判という「民意」におもねってこればかりを追っていけば、「官僚」を人身御供にした政治でしかない。
 「帰化」という言葉の流通も、「死刑」世論の高まりも、「異質なものに対する隔離」「意識の外においておきたい」という「民意」に沿ったものである。これらは決して「官僚」だけが支えてきたものではない。都合のいいときだけ「民意」をかざした「官僚」批判で自らを責任の範囲の外に置こうとする「民意」もある。
 「民意」をどのようにしていくのか、民主党が問われている。民主党を支える議員、党員の質が問われている。そして戦後65年を経て、「民意」の質も鋭く問われている。政治が小選挙区制になってますますゴシップ化し、芸能化し、「民意」に左右されやすくなっている。
 政治過程が透明になり、「素人は黙っていろ」的な時代はこの20年ほどでかなり良くはなったが、しかしマイナスの弊害も多くなっている。どのように変わっていくのが、変えていくのか、そしてこれをどのような目線で感心をもって見つめていくのか。
 唐突なようだが、「民意」という隠れ蓑を装いながら、「国家のために」という規範が市民社会に大きく圧し掛かってくる恐ろしさを、最近は感じているのは私だけだろうか。
 小泉純一郎の強引な手法と自らの政治結果への無責任は、中田横浜市長、橋下大阪府知事などへそのまま引き継がれている。石原都知事も。彼らを支えているのは、残念ながら「民意」という名の選挙の圧倒的な得票である。
 またまた唐突だが‥、「坂の上の雲」がNHKで放映され話題となったが、あの明治以来の流れの必然的な結果として朝鮮・中国・アジアへの侵略や偏狭な国家主義がまかりとおり、1945年までの大殺戮戦争にいたったことに思い至りたいものだ。

自句自解(8) モノトーン

2010年02月13日 10時53分26秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★誰やねむる色なき墓に曼珠沙華
★伸びきって高き雲呼ぶ彼岸花
★ひかり立つ芒を背にし黒き墓
 散歩道の先に公営の霊園がある。体力回復も兼ねて、最初は杖をつきつつ妻に同行してもらいながら、霊園を往復した。
 体力が落ちている頃は、日常の振る舞いでは気づかないが、周囲をじっくり観察しようとすると、たとえば散歩で無縁となっているような墓など目にするとそこはモノトーンのように見えた。また、色彩が豊かな景色は自然と避けて見ていたようにも思う。モノトーンに見える場所から視線を移しても周囲の景色はモノトーンのまま。
 霊園のモノトーンの墓から、首をめぐらして見る横浜の今を象徴する港の高層ビル群も色あせていた。夏の暑さがようやくひいていたものの、冬の木枯らしの吹く頃にはまだ遠く、決して時期的にモノトーンの世界ではないが、衰えた気力では、秋に色づく景色を色の重ね合わせとして認識する視線も弱々しいのだろう。
 墓地の中の彼岸花も白が目についた。元気なときならば鮮やかな赤の彼岸花が印象に残ったのかもしれない。
 尾根道から谷の底までの両斜面に位置する霊園は、高低差が厳しい。狭い区画を区切る細い道から見上げる墓もある。その墓の脇に自生した彼岸花を見つけた。彼岸花を下から見上げたのは初めてだ。その花の先に秋の白い雲が目に飛び込んできた。すっと伸びた茎の先に、細い花と豊かなふくらみの雲が同時に咲いているようにも見える。茎から花がゆたかな丸みを帯びて離れていく気配にも見えた。そのときだけ空が青い色を見せてくれたようでもあった。
 空の高さ、雲の高さを認識したのは、空の青い色を認識してからだった。そして彼岸花の茎の伸びが、過不足なく地面と空に配置されていると感じた。
 3句目は陳腐な取り合わせといわれればそのとおりだが、傾きかけた日に輝く芒は温かみがあって、気持ちを和ませてくれる。言葉の取り合わせや、目のつけ方がすでに先人が目に付けてしまって、使い古された景色であっても、当人にははっとして気持ちが動かされれば、それを句にしてなんらとがめられることもないと思う。それで身を立てるならばそうなのかもしれないが。

久しぶりに二度目の雪

2010年02月11日 20時43分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 雪になる予想とあって、確かに今日は寒い。横浜は前回のようには積もらないとの予想だが、明日の出勤は少し早目がよいかもしれない。
 この歳になって免除してもらったが、就職以来50歳に近くなるまで、雪が降る予想になれば前日から必ず出勤して、雪の対応に追われた。
 娘が生まれてから横浜市内で雪が降った日に在宅した日は1回しかない。その年は2週続けて降ったため、2回目は他の方に代わってもらった。職場が休みの日だったので、朝から小さなかまくらを娘と娘の同級生につくってやった。
 しかし、職場で雪害対応に追われなくなっても、土日の雪では、やはり家の周囲の雪掻きに精を出すことになる。結局は出勤しても同じことなのである。

自句自解(7) 白き月

2010年02月11日 20時31分49秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 自句自解をはじめたものの、「このペースでいったらいつ終わるのか」とちょっとあわてている。別に句が膨大にあるわけではない。インターネットでの展開を重視しているある俳句の会を退会したあと、俳句を作る気力がなくなったので、また作り始められるきっかけにしようと連載を始めたのだが‥。その目的は達成できていない。
 会に所属していたときは、毎日投句の場があり、月に一度くらいは実際に顔をあわせる句会があり、毎月俳句誌への投句があり、と俳句を追われるように作っていた。いい勉強・刺激にはなった。
 ひとりで作るのは、余程気が向いたときでないとつくれない。しかもかなり独りよがりになっていることも確かだ。
 自分の句の説明すらも独りよがりになりがちだし、自分の経験ばかりが先にたってしまう。もとより私なりの俳句の理論やめざす俳句の形があるわけではない。そんなおこがましいことは考えていない。だから自分の句を客観的に見る物差しは無いに等しい。
 それでも、このブログを訪れてくれている方が、このシリーズをはじめてから多くなった。決して少なくはない方が注目してくれているのはとてもうれしい。ただしはじめたからには途中でやめるのも、私の性格上嫌である。ということで、ぼちぼちと続けていく。結果がどのようになるか、自分でも楽しみにしている。

★水美味し体に秋を纏う朝
★鳴きながら蝉が手繰れるこの夕日
★家遥かこの身を透かす白き月
 8月末になって職場復帰をした。1ヵ月半もの休暇ははじめての経験だった。さいわい職場の同僚の暖かい配慮で、少しずつ仕事に慣れるように考えてもらった。今でも当時の仲間にいくら感謝しても感謝しきれない。
 出勤の朝は秋風が気配がした。気分を引き締めようとコップ一杯の水を飲んでから玄関を開けた。水の冷たさが体を満たすように思えた。涼しげな風も体を吹き抜けた。ゆっくりだがいつもの通勤路を歩くことができた。
 勤務時間を終え、職場を定刻すぐに出てまっすぐ家に向かうことは、就職以来あり得なかった。こんなときでないと、と思い、ゆっくりと駅から歩いた。白い月も、蝉の弱々しい声も発病時とは違う季節であることを実感させてくれた。
 弱々しいと思う蝉の声だったが、夕日の中で懸命にその主張を繰り返す蝉に強さを感じた。
 「水美味し」の句はすぐにすらすらとできたが、「なきながら」の句は、手繰れる、が出てこなかった。「蝶が縫い取る」という句を退院してすぐ作ったので、蝉らしい動詞を探したがうまくいかなかった。幹にとまっている蝉に日が当たり、前の二本の足を動かしているのからようやく「手繰る」が出てきた。当初「夕日かな」としたが、「この夕日」の方が自分にとっては具体的な「夕日」になると思って変えた。
 「家遥るか」の句、月の光に身を晒して身をつらぬかれる、という表現が私はとても好きだ。満月の夜、冬の星、夏の銀河、これら身を晒していると外気に自分の身体が溶け出していくような気分になる。この気分が好きだ。秋の夕方の白い月では光が鋭くはないが、わが身を光が満ちてくるような気分になる。それをあえて「透かす」としてみた。大げさかもしれないし、そんなに強い光ではないよ、といわれるのを百も承知で‥。やはり無理があったと、反省している。

自句自解(6) 杖重し

2010年02月10日 23時58分34秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★病む我と同じ呼吸で秋の蝉
 8月の中旬にいったん退院。病院とは違って外の音が懐かしかった。鳥・車・子ども・自転車、そして蝉の声や風の音、どの音もしみじみと懐かしく聞いた。特に蝉の声が盛んだったが、じっと効いているとまだまだ夏の盛りのように鳴いている蝉の声も、元気な若々しいのと、弱々しいのとが交じり合っていることに気づいた。当然鳴き始めて一週間たったものは弱々しくなるのであろう。その弱々しいものを「秋の蝉」と表現してみた。
 回復期とはいえ、病気と薬の副作用に痛めつけられ、寝台に横たわる自分の弱々しい息と、今にも地面に落ちてきそうな弱々しい蝉の声とを同値してみた。
 自分の呼吸のリズムがその弱々しい蝉の鳴く間隔と呼応しているのに気づいたときは、とてもさびしく感じた。しかし同時に、体の隅々まで病院とは違う外気を行き渡らせるように深く深呼吸を繰り返すうちに、精気を取り戻しつつある、との実感も出てきた。
 自分と周囲の事象、それも自然現象に同値するという手法について自覚した時の句でもある。

★朝顔の垣根の隙の妻のかげ
 ときどきベランダにて花々の世話をする妻を見ながら、生きながらえたことを実感した。戸建の家のように見せかけるために「垣根」としたのではない。小さなプランターに立てた棒2~3本に絡みつく朝顔よりも、小さな庭であろうと多少の奥行きが感じられるほうが、また少し遠めに見えたほうが、落ち着きがある風景と感じた。
 また、不思議なもので、妻が小さなプランターとはいえ育てる花々は、自分が眺める団地という小さな区域の自然よりも、もっと身近で親しい自然のように感じられた。直接自分と会話をする植物のように感じた。
 だから登場人物は「妻」でなくてはならなかった。

★杖重し夕日を縫い取る夏の蝶
★杖重しすすきに埋もる祠まで
 夏の蝶とすすきというふうに季節が違うが、この二つの句は同時につくった。帰宅後3日ほどたってから寝ているだけでは耐えられなくなり、夕刻少し涼しくなった折、杖を突きながら、500メートルほどの散歩を始めた。
 はじめは自分以外の自然がすべて、自分よりは生き生きと元気に見えた。夕日を浴びながら飛ぶ蝶は、その不規則な飛び方ゆえに、オレンジ色の夕日の中で飛び跳ねるこどもように見えた。白い団地の壁とオレンジ色の夕日の色を縫い付けるように飛んでいると見えた。
 自分の周囲の活力全体への驚きを蝶の動きで表現してみた。重い杖と蝶の軽い動きを対比させた。
 これに引きかえあとの句は、その活力ある周囲に比べて弱々しい自分の歩行に着目した句だ。
 団地を横断して団地の外に今にも朽ち果てそうで、犬小屋ほどの大きさの「正一位稲荷社」がある。それでも人がかろうじてくぐることができる小さな赤い鳥居を10幾つも連ねている。
 最初の2日は、そこまで行くだけで肩で息をついた。すすきの穂が少しではじめた景色を見たくて、大きな「決意」をしてそこにたどり着いた。
 重い杖、そのものに着目した句としたかった。同時に「祠までは行きたい」という意志の回復を自分なりに喜んだ句でもある。 

自句自解(5) 眩暈

2010年02月09日 00時35分43秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★荒梅雨の雲黒々と眩暈かな
 40度前後の高熱と頭痛がようやく薬によっておさまり、ほっとしたのもつかの間、丸一日たって夕食後の服薬をすませた直後から、激しい眩暈が襲ってきた。
 夕食後、梅雨の末期の3日連続の雷を伴った夕方の雨とそれをもたらす黒々とした分厚い雨雲を見ていた。病院の窓越しであったが、久しぶりに雲の動きをじっくりと追うことが出来た。
 点滴台を曳きながら個室の洗面所に赴き、歯磨き・小用をすませて戻ろうとした瞬間、床がゆがみ、波うち、天井が頭にのしかかってきた。何が起こったかまったく理解できなかった。地震かと思ったものの、周囲では音は何もしない。気分が悪くなり、点滴台にすがろうとしたが支えきれない。足もまっすぐに地面に下ろすことが出来ない。ベッドの横まで2~3歩にじり寄り、かすかに認識した手すりにすがったが、ベッドに乗れない。
 この時初めて、目が飛び出るように、私の意志とは関係なく左から右に回転しているように感じた。これが眩暈というものかと感心しつつ、黒目の動きにあわせて部屋が回転していると理解した。へたり込みつつ「眩暈が‥」と無意識に叫んだらしい。無意識にナースコールを押したのかもしれないが、記憶はない。看護士が駆けつけ、ベッドに横たえてくれた。
 駆けつけてくれたのが早かったため点滴も外れず、床に倒れなかったが、ベッドの上でも目が勝手に幾度も左から右に動いた。目をつぶれば船酔いのようになった。ベッドから落ちるような錯覚があり、敷布を力いっぱい握り締めていた。高熱と頭痛の時とは別に「これでおしまい」と心底から思った。
 どのくらいの時間耐えていたか定かではないが、医師が駆けつけ「薬の副作用」との指摘。まさかこんなに激しい眩暈とは予想しなかったようだ。30分ほど経ってようやく眩暈はおさまった。しかし体や心が無意識に受けたショックはかなり大きかったようで、この恐怖は2~3日続いた。
 しかし「薬をやめるわけにはいかない」とのことで二週間、妻か看護士の立会いのもと飲み続けることを申し渡された。幸いこの日以降の眩暈は、少しずつ軽くなったものの、服薬のたびに軽い吐き気・うわ言・意識喪失を繰り返した。妻から「うわ言で悪魔の薬だといっていたよ」と指摘された。
 一ヶ月の入院後、この時のことを少しずつ思い出しながら、表題のような句を作った。
 この句では経験したことをうまく言い表せていないという不満がつよいまま放置し、句集の候補にもいれずにいた。
 荒梅雨という語感がいいか、黒南風という言葉がいいか迷った。黒い雲のかたまりの内部から雲が成長し、這いずりながら雨を降らす様子と、切羽詰った眩暈の回転とが絡み合うような句にしたいと考えた。
 そんな劇的な、強い調子が俳句に当てはめられるべきものなのかは私にはわからないが、眩暈と黒雲の動きを絡めて見たい。
 
 今でも、もう少し何とか作り直したい句である。 

最近届いていた本

2010年02月08日 01時00分58秒 | 読書
「月刊俳句界2月号」
「みすず2月号」
「図書2月号」
 みすず2月号は2009年読書アンケートと題して154名のブックレビュー。目に付いて購入の機会があれば‥とそそられたものは、「群島-世界論」(今福龍太・岩波書店)、「漱石の漢詩を読む」(古井由吉、岩波書店)、「梁塵秘抄の世界-中世を映す歌謡」(植木朝子、角川書店)、「太陽を曳く馬」(高村薫、新潮社)、「種の起源」(ダーウィン、光文社古典新訳文庫)、「近代書史」(石川九楊、名古屋大学出版会)、「水死」(大江健三郎、講談社)、「新南島風土記」(新川明、岩波現代文庫)、「沖縄文化論-忘れられた日本」(新川明、岩波現代文庫)、「奇跡の画家」(後藤正治、講談社)。いくつか今年読んだ本もあげられていて、あらためて思い出しもした。
 ついでに朝日新聞の読書欄からは、「時間のかかる読書」(宮沢章夫、河出書房新社)、「親鸞と学的精神」(今村仁司、岩波書店)が触手が動いた。

 「図書2月号」今月号は、いつも最初に読む坪内稔典の「柿への旅」と高橋睦郎「詩の授業」をのぞいて、特に心に残るものなし。こちらの側の心が落ち着きがなかったのかもしれない。
 高橋睦郎は、今号は定家を扱っている。歴史だから「こういう把握のほうがいいのでは‥」と言う箇所も当然あるが、「そういうことも承知の上でこのように把握している」というような懐の深さを感じる文体だ。これは見習わなければならない。分析してみる力量はないけれど。

自句自解(4) 雷一閃

2010年02月07日 10時32分06秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★雷一閃輸液の管の青白し
 入院した月曜の夕刻には栄養と水分補給の点滴で人心地がついたものの、まだ原因は特定できてず、不安が先行していた。
 夕刻から梅雨末期の激しい雷雨が始まった。幽かにゆったり揺れる細い点滴の管は真新しく、室内の電灯を受けて輝いていたが、雷光を受けて一瞬青白く透明に変わった。
 私には、時間の止まった昔の目覚まし時計の燐光のようにも、40年前に読んだ武田泰淳の「ひかりごけ」の地の底から洩れてくる光のようにも、方丈記に記された養和の飢饉の餓死者の額に記した隆暁法印の「阿の字」が彷徨するようにも見えた。
 雷光に光る管を幾度か見るうちに、生死の狭間の転換点にいるように感じた。そしてこの病気が癒えたら、これを俳句にしてやろう、とふと思った。いろいろな想念を記憶し続けるには短いほうがいいし、沸きあがる想念は時間を経たときに書いても、うまく描けないと直感した。
 火曜の夕方から投薬が始まり、劇的に頭痛と高熱は収まった。夜再び梅雨末期の雷雨が激しくなった。病室からは外の激しい雷雨と風の音は聞こえないが、雷光と窓ガラスをつたう雨、そして木々の枝の揺れが、目に印象的だった。周りの景色を見るゆとりができた。
★人去りて雷雨に光る点滴台
 はじめはこんな句が思いついた。そして幾度も口の中で口ずさみながら変えていって、頭書のとおりの句となった。私には忘れられない句である。

自句自解(3) 蝉の声

2010年02月06日 10時55分14秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★飛び去って木肌に残る蝉の声
 この句はまだ、痛みがそれほどでもなく、気持ちに多少余裕があった。北向きの寝室から夕日を浴びたアカシヤの木にニイニイゼミが止まって壮んに鳴いていたが、私の寝返りとともに蝉が飛び去った影が目に映ったように感じたが、それは幻覚だったのかもしれない。
 間歇的な痛みが治まると、蝉の声が遠景から好ましい声として認識でき、痛みが始まると蝉の声が痛みを増幅するように厭わしく頭の中で鳴り響いた。木の幹に声だけ残した飛び去ったかに見えた蝉は、静かな声で鳴いていた。
 ただし動詞が三つもあって焦点が定まらない。今ならつぎのように改めたい。
☆蝉去って幹に幽かな声のあと
あるいは句集に掲載するに当たり添削をうけた形の
☆秋蝉の声を木肌に残し去る

★痛みあり短夜の雨の終わりなき
 この句は、金曜の夜の救急外来から痛み止めだけを受け取って、前途暗澹たる思いで、帰ってきたときの想念。深夜小雨が降ってきた。高熱と間歇的な痛みは、薬で抑えているだけで、6時間が過ぎると再び有無を言わせず再開する。このまま死というあちら側へ、すっと入り込むのかという諦念と、せめて原因だけでも知りたいという思いと、耳の後ろの傷む神経だけでも切り取りたいという思いとが交錯する中、雨の音に少しだけ気分が和らぐことも合った。
 土日と二日は病院もやっていないとなるとひたすら我慢するしかないわけで、この時間が永遠のように長く感じられた。

自句自解(2) はじけて眩し

2010年02月04日 23時28分15秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★向日葵のはじけて眩し入院日
   →☆向日葵のまぶしき道を入院す

 私が入会した結社の指導では、普段は、添削があったとしても「てにおは」程度だけだった。そして句の後ろに★が二つから五つつけられ、比較的良い句に先生のコメント(ほとんどが誉めてもらう)をもらった。技術的なことより内容についてのコメントばかりであったが、それが私にはうれしかった。
 (この結社の前に別の俳人の教室に一度だけ「向日葵のはじけて眩し入院日」を投句したら、この17文字どの語句も跡形もなく消えた添削句となっていた。その添削句はもうすっかり忘れたが二度とこの人の指導を受けることはしたくないと思った。)
 そんなこともあり、また作った人間の思いや言葉のリズムの個性を最大限尊重しようとの姿勢にも見えた。強引な添削ではなく、他の方の句を見ながら自分で勉強するという姿勢を教えてもらったような気がする。
 そして2002年7月に俳句をはじめてから2008年夏の終わりまでの句を句集にまとめた。その折、結社の先生より上記のような添削をはじめて受けた。
 句集をまとめる以上確かにそれは結社の指導者としてはできうる限り水準を確保することをめざす。確かに添削を受けたほうが相手には伝わる。「はじけて」の意味が不鮮明であることも承知をした。この添削は私は了解できたので添削のとおりにして句集に収録した。
 しかし私の思いはやはり「はじけて眩し」だ。
 頭痛の原因が近くの医院でも大きな公立病院でもわからず、痛み止めと解熱剤だけを処方され、5日間ほど間歇的に体が海老反るような痛みに襲われ、40度を超える熱にあえぎながら、暗い北向きの寝室で、病院が休みの土日も含め、ひたすら耐えていた。もうこれ以上どうしようもない状態で、月曜の朝に、公立病院へ電話をして、受け入れてもらえるよう頼み込み、タクシーに担ぎ込まれた。
 そのとき早咲きの小さな向日葵の生を謳歌するような黄色が、暗い部屋に順応していた目にそれこそはじけるようにパッと目に鮮やかに映った。眩しく強烈な黄色であった。外界の眩しいエネルギーの奔流に圧倒されたと感じた。
 「あぁ、まだ生きていた」と心のそこから湧き上がるように言葉が浮かんできた。鮮やかに目に飛び込んできた向日葵の生きた色への驚きと、「生きている」という言葉が水底から泡が浮かび上がって勢いよくはじけるような思いを「はじけて眩し」と、自分なりに言い当てたように思った。
 だから文法上通じにくいとはおもいつつ、やはり私としては「はじけて眩し」にこだわったほうが良かったと思っている。

 はじめに作った作品にはどんな方も強い思いがあるようだ。私もこのはじめて感動を俳句にした出発点を大切にしたいと思い、この文を綴ってみた。

自句自解(1) 発端

2010年02月03日 23時52分48秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 2002年7月に病気で入院したのをきっかけに俳句を始めた。ひどい頭痛と高熱にうなされながら、死というものを意識しながらも、ひたすら痛みに耐えていた。「死」というもの、事前に意識して見構えて迎えるものではなく、のた打ち回る生の結果としてふと身近に来るものではないか、意外とすっと死という向こう側へすんなりと行けてしまうものなのか、あっさりとしたものなのかもしれいないと思った。
 医師のおかげで、小康状態となってからも筆記具を手にすることもできず、むずかしいこと、長いものは覚えられないけれど、「今」を何かで表現したくなった。何となく「5・7・5」のリズムで言葉が出てきた。31文字よりも17文字の方が短くて、覚えていられそうなので、俳句にしてみた。筆記できないので、5句ほどを繰り返し繰り返し口ずさみ、覚えて1週間後に鉛筆とメモ用紙をもらってたどたどしい文字で書いてみた。すらすらと5句が書けた。

★向日葵のはじけて眩し入院日
★飛び去って木肌に残る蝉の声
★痛みあり短夜の雨の終わりなき
★人去りて雷雨に光る点滴台
★雷一閃輸液の管の青白し

 今から見ると、「向日葵の‥」「飛び去って‥」「雷一閃‥」はまだしも「痛みあり‥」「人去りて‥」は恥ずかしい限りだ。しかしいづれも切羽詰って切実な情景であったことは間違いない。

 秋になりかけたころ退院・自宅療養に目処がつきそろそろ職場復帰という頃にインターネットである俳句結社に投句したのが、俳句の作り始めだ。
 素人でも投句するたびに「おだてられて」その気になると、なかなか面白い。人前に自分の創作物を発表することに刺激を感じるようになり、いつの間にか句会にも参加するようになった。そういった意味では結社の先生や仲間だった方々には今でも感謝の気持ちは持ち続けている。

 俳句や短歌は中学生の頃から読むこと、鑑賞することは好きだった。教科書に載るものは皆好きになった。特に飯田蛇笏の句が気に入っていた。
 芋の露連山影を正しうす(蛇笏)
 芭蕉の紀行文は中学から大学時代も繰り返し繰り返し読んだ。高校生になって万葉集や新古今集を中心にいろいろ読むようになったが、自分で短歌や俳句を作ることはなかった。
 学生時代は、万葉集や芭蕉や正岡子規の文庫本をポケットに入れたまま、デモや集会をいくつもこなし、東京の集会に出るために仙台からの夜行列車の薄暗い照明の中で読みふけった新古今や実朝の金塊和歌集を思い出す。三里塚でビニールハウスの中でヘルメットを枕に20m先の裸電球の明かりを頼りに読んだ西行の山家集も忘れられない。
 それだけ読んだけれどもいざ自分で作るとなると、そんな経験や蓄積などまったく関係がない。自分のイメージや感じたものを、言葉を選んで17文字の中に定着させる行為に、そのような知識は歯が立たない。鑑賞すること、読むこと、理解することと、作ることとはまったく違う位相のような気がする。

 こんなことを綴りながら、自分の作った俳句を自分で鑑賞してみることにした。気が向いたら読んでみてください。

寒さ一入

2010年02月02日 12時52分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 関東地方の南部に雪が降る場合は、列島南岸沿いを低気圧が北上するとき。低気圧が去って雪が止むと、晴れて太陽が顔を出すとともに、南から温かい風が吹き込んで雪をとかしてくれる場合が多い。雪解けのしずくに朝日が反射して、春への歩みを感じるものだ。
 本日は低気圧がほぼ東に去っていった。そのためなのか、次の気圧配置のためなのか、太陽が顔をのぞかせない。風も北風、寒さが続いている。
 横浜は広いため、雪の量は、南部・中心部・北部・西部で違いがある。同じ南部でも海沿いと内陸部で、雪や雨の量に違いがある。決して小さくない違いだ。
 長く住み、長く勤めると、そんな違いがごく自然にわかるようになる。仕事においても行動パターンやとっさの判断に生きてくることがある。
  それを自覚できる人が仕事のパートナーとなると貴重だし、頼もしい。

本日は雪

2010年02月01日 23時57分27秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 天気予報が当たってしまった。19時ごろから霙となり、あっという間に雪。横浜北部はすでに23時ころには積雪3cmくらい。
 雪国の方が聞いたら笑わってしまうだろうが、横浜などでは交通が麻痺し、大騒ぎとなる。しかし雪が降り、積もるのは何年ぶりだろうか。
 雪は、都会の雑音、騒音を吸収してくれるので静かな時間を供してくれる。個人的には好ましいのだが‥。
 雪が降る気配を感じながら風呂にゆったり浸かるのが心地よい。