Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

東日本大震災から2年-当日の記憶1-

2013年03月11日 14時40分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 東日本大震災から丸2年ということになった。

 あの日、横浜にいて勤務についていた私は何をしていたのか、いつも思い出す。横浜の南部のはずれの海から隔たった区内で仕事をしていたのだから、震源地にも遠く、津波にも無関係でいた。だから何をしていたのか思い出すことに特に社会的な意味があるわけでもない。
 ただ個人の思いとして、社会的な事象と自分をつなげる契機としてキチンと覚えていたいのだ。

 あの日、午後から特に重要な仕事があったわけではなかったと思う。お昼休みが終わって、何本かの電話をとった後、現場調査を1件こなそうということを決めた。仕事柄、一人で仕事の段取りや予定を決めることができた。小さなバールと現場用カメラとバインダーに挟んだ地図と筆記用具を用意して、徒歩で現場に出た。
 ちょっとぐずぐずしていたのだろう、14時30分に少し前くらいに事務所を出たかと思う。何の現場調査だったかがはっきりしない。電話に由来する調査だったか、あらかじめ予定していた調査を早めに処理しようとしたのか、覚えていないのだ。バールを持っていたのは確かなので下水道の料金がらみだった可能性は高いと思うが、確かではない。具体的な目的地は覚えているのだが、何ともそれがもどかしい。ただ、歩いていこうとしたルートは覚えている。
 安全半長靴を履いているのでそれほど早くは歩けないので通常の10分くらいのところを15分くらいかかった。あと500メートルくらいで目的地というところの小学校の傍を通ったとき、下校途中の小学生が騒ぎ始めた。かなり母親が出迎えていたので、終業式かなにかの尾張だったのかもしれない。コンビニのすぐ傍だった。小学生の悲鳴に近い声がしてしばらくしてから、コンビニから店員が地震だと言って飛び出してきた。それで私も揺れを感じた。
 女子の小学生と母親がコンビニの大きな看板がついている柱の根元やその傍の低い石垣に身を伏せていた。私は看板の大きな揺れに気づいて、「柱の傍は危ないからどいたほうがいい」と声を掛けたがまったく聞く様子はなかった。私はコンビニの駐車場で車から離れた場所に揺れを感じながら仁王立ちになっていた。しかし駐車場に駐車している車が、今にも動き出しそうに大きく揺れたので、私は恐怖を感じた。車が動き出して私の方に飛んでくるのではないかと感じたのだ。そしてコンビニの中から商品の落ちる音やビンが落ちて割れる音が聞こえた。
 少し揺れが収まったかと思うとまた強い揺れが繰り返されるように感じたが、実際の揺れはどうだったのだろうか。ただ揺れている時間が長く感じたことは確かだ。どのくらいの時間かはまったく想像できなかった。前震にまったく気づかなかった、室内で震度を感じたわけでもないので、遠くなのか近くなのか、の判断も出来なかった。ただ自動車も動き出すこともなく、大きな看板が落下してくることもなく揺れは収まった。
 あたりは、駐車場でも、柱の下でも、また反対車線の小学生の列も悲鳴は聞こえてこなくなり、けが人がいる雰囲気はなかったのを確認できた。またコンビニの店員があたふたと店の中に戻っていったが、けが人がいるという様子もなかった。ホッとしてあたりをもう一度見回して、信号が消えていることに気づいた。

 多分震度5弱以上の揺れではないかと考え、今自分が何をすべきか頭を巡らした。とっさに考えたのは、
1.今仕事中なので、とりあえず道路管理・下水道管理・公園管理の末端にいるものとしてしなくてはならないことは何か
 これについては、すぐ職場に戻ることと約100メートル先にある陸橋のやれる範囲の目視点検、これが頭に浮かんだ。
2.組合の支部長として組合員の安全確認の実施が必要かどうか。
3.妻と母親と娘の安全確認の方法。

 とりあえず100メートル先の陸橋に向かい、新しい亀裂の発生の有無や付属施設の不具合を下の道路側から見るのと、上の道路をとりあえず走って路面を確認した。そのとき二つの交差点の信号が点灯していないことを確認した。再び下の道路にもどり、事務所に向かって早足で戻りかけたとき、1台の自家用と思われるワゴン車が猛スピードで信号の点灯していない交差点を徐行せず、かえってスピードを上げるように走りすぎていった。
 このとき私は揺れを感じてから初めて身震いがした。あまりにひどい運転だったこともあるが、交通無秩序の出現がこれから出来すると大変な事故が頻発するのではないか、という危惧が頭を掠めたのだ。
 途中、揺れを感じたところを10分後にもどったのだが、そこで職場の車に出会った。手をあげて挨拶しただけだったが、すぐにトラックと乗用車を割り振って2名1組で道路・下水・公園の点検に出向いていることがわかった。この職場の指示はずいぶんと早かったと今でも感心している。わずか10分しないで点検範囲の指示と出動が出来ている。

 職場に着くと、エンジンの発電機がすでに動いていた。執務室に入ってみると、停電によって暗い中で2台のパソコンにだけ電源が入り、災害点検の入力作業が行われていたが、通信がうまく行っているかどうかはまだわからないようだった。
 とりあえず私の点検した陸橋の報告と信号の点滅していない箇所を報告。点検出動の割り振り状況などを聞いて、災害時向けの所内のしつらえを始めた。しかし各自のパソコンも、コピー機もプリンターも動かず、さらには電話機も1台しか使えない。地元や他の公共機関からの情報も、点検にまわっている職員からの情報も受けられず、携帯電話もつながらない。そんな中でようやく災害時の所内のしつらえを終え、点検班の報告がすべて異常なしで終わって一息ついたのが17時過ぎであった。

 ここでようやく自分の携帯電話で、他の支部執行委員に連絡を取ろうとしたが、私の携帯電話もまったく通じない。組合の本部の電話も通じなくなっていて、本日の組合関係の連絡は断念せざるを得ないことが判明した。
 ただ1回、不意に携帯電話が通じて母親から横浜駅の百貨店で地震にあい、ようやく歩いて家に無事着いた旨の連絡が入った。携帯電話の音声が通じたのは、この日はこれだけであった。

続く。

黄砂ではなく煙霧!

2013年03月10日 22時11分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 午後2時以降のスモッグ用の雲について、気象庁は「黄砂」ではなく「煙霧」と発表した。煙霧とは何かと思い、ネットで検索してみると、次のような解説が出て来た。

 気象現象としての「煙霧」は、以下の現象を包含する総称である。
・風によってちりや砂ぼこりが地面から巻き上げられる現象(風じん)。
・風で巻き上げられたちりや砂ぼこりが、風が止んでからも浮遊する現象(ちり煙霧)。
 特に日本では、中国・モンゴル等の乾燥地帯由来のちりや砂ぼこりが飛来するものを黄砂と呼び、気象観測でもちり煙霧と区別することがある。
・山火事、火災、工場排気、自動車排気などから出た燃焼物由来の微粒子が浮遊する現象(煙、ばい煙)
・物の破砕や産業活動等によって主に人工的に生じる微粒子(粉じん、粉粒体)が浮遊している状態工場排気、自動車排気等に含まれる気体成分が大気中で変質した固体の微粒子が浮遊している状態
・火山から噴出した火山灰が降下する現象(降灰)
・海塩粒子等の自然由来の微粒子が浮遊している状態
 観測者の周りの大気が上記のような状態であるときの天気を煙霧という。
 また大気汚染による煙霧は「スモッグ」とも呼ばれる。スモッグは煙と霧を合成したことばであり、元来は燃焼物に由来する煙と自然に発生する霧の混合したものを指していたが、現在は排気ガスの変質により人体に有害な気体成分を含むものを「光化学スモッグ」と呼ぶようになった。

 これでも半分くらいに短くしてみたのだが、要は巻き上げられた砂塵と言うことなのだろうか。工場の排気、自動車の排気ガスに由来するものではないことを願いたい。

 大気汚染といえば、いま中国で話題となり日本にも押し寄せている大気汚染、1960年代の日本の大気汚染の再来みたいなものなのではないだろうか。
 健康に対するキチンとした対策は必要だ。しかしこれについて中国に対する過剰とも思える攻撃がさかんだが、日本も1960年代当時は、大気汚染と廃棄汚泥・水による太平洋の汚染がひどかったのである。東に隣国がなかったので国際的な紛争にはならなかったが、偉そうに声高に一方的に、これ見よがしに中国を批判することなど出来ようか。むろんあの汚染垂れ流し、汚染し放題の悪い前例に学ぶことをしない中国の政治・経済体制はひどいと思う。だが日本やヨーロッパ諸国の経済進出や経済協力のあり方にも反省材料はあるのではないだろうか。


 明日は気温がぐんと下がるとのこと。体調管理に気をつけないといけないようだ。そして明日の夕方は友達と横浜駅のそばで会うことになっている。楽しみである。


「伊万里焼-染付の美-」展

2013年03月10日 17時13分36秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 一昨日の金曜日、横浜のそごう美術館で「伊万里焼-染付けの美-」展を見てきた。
 陶器の展示はときどき見るが、これほどまとまった収集を見るのは初めて。陶器については特に知識があるわけでもない。しかし興味はある。また旅先でその土地の焼き物があると、時々お猪口をよく買う。でも「○○焼」「△△窯」などと書いてあっても、聞いてもすぐに忘れてしまう。それほど情けない「興味」の程度だ。それでも気に入ったお猪口は、お酒がなくなっても手にもって器の形を指でなぞってその感触を楽しむことはよくやる。
 厚手で上薬がたっぷりとかかっていて、ちょっといびつな形が好みだ。色は暗い色を背景に少しの明るい色が覗いているのがいい。具体的な風景や物、人物の絵は好まない。

 今回も、伊万里焼という言葉は知っている程度。「柿右衛門」という名とともに「佐賀県有田町を中心とする肥前国で作られた磁器。製品の積み出し港が伊万里であったので「伊万里焼」と呼ばれた。豊臣秀吉の朝鮮出兵(壬申倭乱)時に鍋島藩の藩祖が半島の陶工を連れ帰り、日本で始めて作成された磁器」、その程度の知識しかないのだが、無料の入場券につられて、見てきた。

 ある収集家の、江戸時代後期から明治維新以前の大皿の収集品の展示ということであった。展示は径30センチを超える大皿ばかり140点が並び、確かに圧倒されるような展示である。

 当時、製作者の名は記録されることはなく、細かい工程ごとに職人がその技術を傾けて製作したのだろう。分業化が進んでいたらしい。写実と様式美の狭間でその精緻の極みを見せてくれているようだ。
 当時は平戸を通して大量にヨーロッパに輸出され、大変高価なものとして珍重されたようだ。また日本国内でも、鍋島藩から将軍家への献上品、あるいは他の大名家への贈答品として、あるいは有力商人をとおして日本各地へ流通したそうだ。
 江戸時代というのは閉ざされた250年というように私などの高校生の頃までは教わってきた。そうではないことがいわれて久しい。私もそのように認識を改めていたつもりであった。しかし実際にこのような精緻な製品が世界に輸出されていたことなどを指摘されると、より実感として納得する。
 作られた当初の、伊万里焼の歴史の発端のあまりにむごい話し、戦利品のように日本に連行されてきた陶工達。そのような扱いに、いたたまれない気持ちが先行していた。その気持ちに変化はないが、それでもその陶工の子孫を中心にしてその技術が定着し、発展していった結果には敬服するばかりだ。
 実は韓国で高麗青磁、それも象嵌のものを見て、その美しい色と形に見入ったことを思い出した。朝鮮出兵までその高い技術は日本にはなかった。当時の日本のあこがれの技術であったのだろう。
 この精緻でかつ大胆・豪放、写実に富んだ動物・植物・人物像、唐草紋等の精緻な文様など、当時の職人技が世界水準の先端を行くものであったことが十分推察される。

 私はこの展示を見ながら、職人と芸術家の違いとは何かということを考えていた。結論はでないのだが‥。展示品の中には確かに人目を引くためだけの図案のものもあったと思うが、大半は手書きとは思えない、驚くばかりの緻密な細かい紋様に目を奪われた。
 同時にこのような豪華な紋様の大皿を使いこなした江戸時代の料理、食の文化にも驚く。単に飾っておくだけのものではなく、実際に料理に使われることでその利用価値が高まったようだ。この大皿料理を使いこなすには大人数での宴会が前提であると同時に、商人を中心とした町民文化の豊かさも感じられる。これだけの大皿が流通していたということは、その文化の底辺への広がりもまた想像される。

 職人と芸術家、文化の豊かさと広がり、こんなことを考えるきっかけとなった展示であった。
  

久しぶりの会報作り

2013年03月10日 13時59分46秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 朝から強い風が吹いている。日が差し、気温が高いので、ジョギング・ウォーキングに出かけたいのだが、風がうなりをあげて吹いているので断念した。何が飛んでくるかわからない。

 ということで、組合の退職者会の会報を朝から作成している会報といっても私の所属するブロックの会員向け。現役の頃でいえば支部ニュースのようなものだ。現役の頃はほぼ週刊で作成していたが、退職者会では個人向けの郵送なので料金が膨大にかかる。そのため隔月で配布物を送付している。それでも会費の大きな部分を占めている。

 久しぶりの会報作りだ。例によって一太郎でA4裏表。まず当面は横書きである。部数も60部に満たないのでカラー版。千数百部を印刷していた現役のときの支部ニュースはモノクロであったので、今回はカラーとなるのでなかなか色の使い方が難しい。そしてあくまでも高齢者向けなので、大写しの写真を多用して読みやすくしたい。

 不思議なことに慣れている所為か、作成していると楽しい。どのようにしたら読みやすくなるか、伝えたいことの核心は何か、退職者会の原則にのっとった記事の書き方、紙面の作り方などいろいろ考えることが多い。それが楽しい。ひょっとして、これが趣味や生きがいになってしまっては困るのだが‥。

 本当は新聞のように、外枠をつくり一段12~13字の縦書きで罫線を使うとしまりのある紙面となるのだが、試作品ということで当面は横書きにした。外枠も罫線も無し。ちょっとさびしい。
 いつかは新聞形式で作成してみようかと考えている。
 

神戸の印象-六甲縦走-

2013年03月09日 20時00分00秒 | 山行・旅行・散策
 初めて六甲山に登った。以前に新神戸駅からロープーウェイでハーブ園までいったことがあるだけだ。今回はこのロープーウェイを使い、ハーブ園から摩耶山を経て六甲山の最高点を踏んで有馬温泉までの約7時間半のコースを歩くことにした。 ロープーウェイは朝9時半が始発というかなりゆっくりした営業開始時間。これでは、新神戸駅を7時半過ぎに登り始めれば30分以上早く摩耶山に着くのだが、一人ではないので無理をしないことにした。
 それでもハーブ園から摩耶山を登るまではそれなりの急登であった。途中山岳を走って縦走する方3人ほどに追い抜かれた。かなり走り込んでいる様子であった。そのほかにも3人の若い方に抜かれた。追い抜かれても還暦夫婦ののんびり登山でもあり、景色を楽しみながら登った。一人であくせく登るスピードをつい思い出してしまうのだが、そのたびに自分にブレーキをかけた。
 いい天気に恵まれ、神戸の市街地がよく望めた。北野の異人館街を見下ろすと、当時の外国人が摩耶山の急な山肌に張り付くように家をたてていたのがよくわかる。彼らは自宅から旧居留地の仕事場を眺めながら暮らしていたのであろう。また北側の山並みの眺望も楽しめた。
 私はどこかをたずねたら出来るだけその地の高いところから俯瞰することを心がけている。そうするとその土地の活用のイメージがわかるような気がする。この六甲の銃走路から眺めなければ、平家の時代の福原という港や御所のイメージは沸いてこないのであろう。平家の公達たちもここからの眺望を幾度もながめたことは想像できる。明治維新後、神戸という都市の機能や都市計画に携わった人々もこの銃走路から港を俯瞰したはずだ。その人たちがどのような夢や計画などをおもいえがいたのであろう。
 摩耶山では地面に霜がたくさん出来ていた。靴で踏むと心地よい音がする。また霜を踏む感触も懐かしい。摩耶山を過ぎ標高が多少高くなり六甲山の山域に入ると雪が残っているところがチラホラ。さらに谷の日の当たらない斜面では大きな長い氷柱が崖沿いに伸びているところもあった。それでもところどころで梅が咲いている。風は冷たいが、風が止まると陽射しが温かい。
 季節的にはいいハイキングが楽しめるのだが、ハイカーはいたって少ない。さびしい。そのために沿道の食堂も閉店しているところが多かった。いくつかのロープーウェイの終着点では店が開いているが、それ以外はとてもさびしい。有馬温泉での日帰り入浴も楽しめるし、交通の便もいい。実に手軽でいいフィールドと思うのだが、かえって身近すぎるのだろうか。それとも4月5月の連休などを過ぎると大勢の人があるくようになるのだろうか。
 自動車道を縫うようにして伸びる登山道というのは、やはりさびしい。出来れば車道を歩いたり横切ったりしない登山道の整備がうれしいのだが、ここまで車道が整備されてしまっていてはそれも困難なのであろう。残念である。

                                                                     



神戸の印象-神戸市街地-

2013年03月09日 11時00分12秒 | 山行・旅行・散策
 神戸の港から元町、旧居留地、三ノ宮、市役所界隈等をシティループバスも利用しながらブラブラと歩き回った。その町の雰囲気を知るにははやり歩くことに徹するのがいい。
 神戸という町を歩きながら、やはり横浜と比較しながら歩いてしまう。町の人にいちいちそんなことを言っていたら失礼にもなるとは思いつつ、やはり気になる。
 旧居留地→関内、南京町→中華街、元町→元町、ポートタワー→マリンタワー、メリケンパーク→山下公園、ハーバーランド→新港地区、ポートアイランド→MM地区、北野異人館街→山手地区‥。むろんお互いに独自の景観もある。
 比較できる地区の横浜との違いに思いをはせながらブラブラと歩くのはなかなか興味深いものがある。そして横浜にない活気や神戸ならではの街並み、街づくりの特徴に気づくと、楽しい。神戸という町の魅力が伝わってくる。

         


                                                   

神戸の印象-有馬温泉-

2013年03月09日 07時15分28秒 | 山行・旅行・散策
 有馬温泉は有名だが、初めて訪れた。初日は市営の「金の湯」で有馬温泉特有の茶褐色のぬるめの湯とあつめの湯の二つに1時間余使った。2日目は六甲山縦走の後、同じく市営の「銀の湯」で、炭酸泉と低温サウナに1時間近く入った。孟子少し入っていたかったが、時間の制約がありやむを得なかった。
 見てまわるところ、食事をしてみたいところはさらにいくつかあり、またの機会にせざるを得なかった。町おこしの努力といいなかなか魅力的な温泉街だと感じた。

      


                                    

神戸の印象-南京町-

2013年03月08日 22時00分00秒 | 山行・旅行・散策
 神戸の南京町の印象を。横浜に住んでいるとつい中華街と呼びたくなるのだが、神戸では南京町というのが正しい名称になっている。商店街振興組合が前面に出て町美化等に大きな役割を果しているようだ。

               


   

神戸の印象-北野異人館-

2013年03月08日 19時44分57秒 | 山行・旅行・散策
 まずは神戸の異人館の私なりの印象を撮影した写真の内から何枚かを。

                                                         


         

ようやく温かい-梅の日和

2013年03月06日 22時34分52秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 午前中の講座終了後、みなとみらい地区から歩いて帰宅。暖かな陽気で、薄いとはいへダウンのコートを着ていったためすっかり汗ばんでしまった。
 夕方からは労働組合の退職者感謝のつどいに出向いて、退職者会への勧誘活動。同じ世代の仲間との再会はとても楽しい。私と同時、あるいはその前に退職したものの再雇用で仕事を続けておられる方との対話もまた楽しい。これから退職をする予定の方との会話はさらに楽しい。皆さんが快く退職者会に加入してもらえるのはそれ以上にうれしい。ながいお付き合いを続けてきて本当に良かったと思う。
 60歳以降の生活の仕方、生き方、人生へのこだわりや仕事へのこだわり‥、いろいろな生き方を聞くにつけその多彩な思いに頭が下がる。その方の人生の豊かさに心から敬服する時間であった。退職者会がお互いの老後にいい意味での刺激をお互いに発信できる組織になれるよう努力していきたいとあらためて感じた。


神戸から帰宅

2013年03月06日 15時17分20秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨夜23時位に横浜の自宅に戻った。
 新大阪からの新幹線の中では、神戸で購入した白と赤のワインの各120ccの瓶を二人で飲んだが、安い割にはおいしく飲めた。帰りの新幹線は満員。若いカップルや、京都からは卒業式を終えたばかりのような女性グループがかなり乗り込み、若さが横溢した車両であった。出張帰りと思われるサラリーマンは少数派。まして私共のような還暦夫婦は乗車した車両には一組だけだったようだ。まあ、騒がしいグループがいなくて幸いであった。
 2泊3日、六甲山縦走と有馬温泉以外は妻の主導の神戸散策であった。異人館巡りは私も興味があったので、それぞれに楽しむことは出来た。

 灘の酒蔵の訪問はこれからの楽しみに取っておこうと思う。

 そして本日は朝から、4月からの神奈川大学とNHK文化センターの連続講座の申込みをネットであわただしく行った。その後、古代史の連続講座に参加したが、約10分の遅刻をしてしまった。

 夕方からは組合の退職者会のイベント(3月末退職予定者への加入勧誘活動)で再度出かける。

 神戸の印象の追加は別途掲載予定。

神戸3日目

2013年03月05日 21時20分08秒 | 山行・旅行・散策
 朝目覚めて腰の痛みの状況をさぐってみると昨日の朝よりは楽になっている。昨日の登山にもかかわらず改善していた。取りあえず経験則の判断は上々。
 しかし多少の違和感はあるし、生兵法は命取り、とのこともあり本日はユックリ動作と無理のない動きにこしたことはない。
 本日の予定は妻のあとをついて回ること。本当は灘の酒蔵巡りも考えていたが、何となく日本酒の気分からは遠い心持ち。さらに腰の様子見のためには昼酒はまずいと、しおらしく・・。
 ハーバーランドから中央ターミナル・ポートタワー近辺を散策後、シティーループバスで元町へ。シャッターを降ろしている店も目についたが、元気のある店も多かったと思う。店によって落差・格差が大きいのだろうか。
 横浜の元町と比較されるが、若い人を増やせば、雰囲気は仙台の一番町や中央通りに近いのではなかろうか。
 古くからの店が健在で、特に古い喫茶店が目についた。決して明るい商店街ではないが、昔と今と比較してどのような変化がおきているのだろうか。興味は尽きない。

 さて、南京町は横浜の中華街より狭いと神戸の人は自嘲気味に言うが、活気はスゴイ。街としての整備は昭和50年代末らしいが、独自の賑わいと街並みを形成しているし、独自の食文化を発信しているように見えた。商品サンプルは路上にせり出し(これ自体はあまり感心しないが)、店の前の屋台も品数豊富で安い。横浜の中華街のようなしつこくて強引な甘栗の押し売りがなくてさらに気分がいい。豚速や豚の耳などの煮込みが横浜の中華街よりもたくさん並んでいて、私はとてもそそられた。お昼を食べてみたい気もしたが、腹の具合からは断念した。
 再度異人館のある北野におもむき工房の町、シュウエケ邸、英国館、フランス館、ジャイナ教寺院・・を外から見学した。
 再び三ノ宮にもどり、昼食後、市役所の24階展望台で昨日歩いた六甲の山並みを見、逆に海を眺めたりと楽しい時間を過ごした。
 お土産購入後、17時過ぎに大阪着。難波ー御堂筋ー心斎橋と散策、人通りの多さにあらためて大阪の底力を感じた。心斎橋駅そばで、味噌焼き・串揚げ盛り合わせで、お酒をようやく1合。

 昨日は4.3万歩。本日は2.2万歩。
 その他の感想・補足は後日アップ予定。

神戸2日目ー六甲山縦走

2013年03月04日 21時57分51秒 | 山行・旅行・散策
 夕べホテルのベッドにはいる時、ベッドが柔らかすぎるかなとチョット心配になった。それでも熟睡したが、朝目が覚めて伸びをしたときギクッとなった。朝食のため靴を履こうとしたが腰が前に曲がらない。ようよう靴を履いて朝食を食べ終わってみると何とか靴ははけるようになった。
 腰に違和感があるものの、登山を決行することにして、新神戸から神戸布引ロープウエイでハーブ園山頂駅へ。ここから六甲山最高点を通り有馬温泉まで約6時間のコース。
 9時半のロープウエイ運行開始と同時に乗り込み、山頂駅に9時45分着。早速歩き始めた。ハーブ園はまだ開園前であった。
 ほどなく阪神淡路大震災で崩落し今も防護工事をしている個所を通り過ぎたが、崩落の大きさと、垂直の崖にぶら下がって作業をしている作業員の姿を見てあらためて爪痕の凄さに驚いた。同時に作業の困難さも実感した。
 摩耶山を過ぎる辺りまでは急登降が続きなかなかの山道であった。
 お昼過ぎて昼食の予定をしていた六甲山ホテルに着いたが、なんとランチの値段が3800円と4500円??!!驚きあきれてしまった。二の句がつけなかった。
 従業員に聞いても営業している店は無いという。バスの運転手に聞いてようやく300メートル戻ったところの藤原商店で、パンなどを売っていると教えてくれた。二人分のおにぎりと巻き寿司・あんまん・お茶を8l0円でゲット、店内で椅子も使わせてもらい一息着くことができた。助かった。
 2人で9000円以上という話が810円となり感謝である。しかしホテルをもう少し先に3分歩くと昼定食1050円の店があるではないか。さらに先にも800円でカレーライスを提供している店もみつけた。 高山の山小屋のルールを六甲山の縦走路の店に期待すること自体が間違っているのかもしれないが、ハイカーに近辺の店の状況を自覚的に提供しないホテルのあり方には疑問を感ずる。
 実際のところは焦らずとも、携行食に煎餅やビスケットを用意はしていたので、行き倒れることはないのだが、それでも少しあわてた。なお、登山地図や案内書には食事できるところの記載はないのもつらいものがあった。

 さらに先のあずまやでは、北野で昨日購入したチーズケーキも格別の味であった。また六甲有馬ロープウエイの頂上駅近辺のいくつかの店の一つで妻はプリンにありついてご満悦。どうも私には理解できないのだが、ハイキングや登山では女性はこの甘味にはとても執着があるらしい。女性特有ではないといわれればそれまでだが‥。
 疲れがピークになる15時半ころ六甲山最高点に到着。ひろいなだらかな山頂からの眺望は瀬戸内海側も有馬温泉側もすばらしかった。
 1時間15分の下り(魚屋(ととや)道=明治時代まで神戸から有馬まで魚を運んだ道とのこと)で有馬温泉着。この下りは整備され登山道とは思えない歩き易さで楽であった。ここまでで4万歩オーバー。休憩を入れて7時間半、約25キロ超を歩いた。

 本日の市営の「銀の湯」は、昨日のやはり市営の「金の湯」の赤い湯と混雑に比して、炭酸泉の無色透明の湯で、かつ空いていて、ゆったりと浸かることができた。疲れもとれた。50度の低温のサウナも登山帰りにはうれしい。
 有馬温泉で電車に乗る前に「ありまや」という居酒屋でビールとお酒、豆腐とジャコのサラダ、明石の蛸の刺身、ゴボウの唐揚げ、ジャコ飯で打ち上げ。とても美味しいお店であった。
 
 午後からは雨かもしれないという天気予報をくつがえし、好天気。雨男返上できるだろうか。心配は私の腰の状態。幸い今度のベッドは私の家のベッドに近い硬さなので回復を期待したい。
 
 明日の予定は朝食を食べ終わってから考えることとし、早寝としよう。

神戸初日

2013年03月03日 21時41分55秒 | 山行・旅行・散策
 本日は早朝に新横浜をあわただしく出発して新神戸へ。午前中は神戸市役所付近から旧居留地を歩き神戸市立博物館へたどり着いた。残念なことに「中国王朝の至宝」展ということですでに東博で観た展示で観覧は断念。通常展は開催していなかった。
 新神戸に戻り、12時発のバスで初めて有馬温泉を訪れた。新神戸から直通で40分未満といいところにある。日帰り入浴の後、15時過ぎまで温泉街を散策。コロッケ一枚100円、高いがおいしかった。一合のお酒が手に入らなかったのは寂しかった。お昼過ぎは人出は少なかったが15時頃には狭い道から人が道にあふれ、車も渋滞。人気の高さをうかがわせた。若い人が多く、チョットびっくり。外国人観光客も多数。
 16時前に新神戸に再び戻り、北野周辺の異人館をいくつか見て回った。プラトン装飾美術館、坂の上の異人館、うろこの家、香りの家異人館、デンマーク館、風見鶏の家、萌黄の家、北野町広場を経て、北野坂、東門街、生田神社という若い女性好みのコースを歩いた。若いカップルや若い女性グループが大勢散策しており、何となく場違いな還暦夫婦であった。
 横浜の山手の西洋館を巡る道から港の見える丘公園、元町界隈よりも人出もあり、喫茶店、明るい小物売りの商店やケーキ店、小洒落た飲食店が多く並び、活気があった。横浜より極めて狭い道は車も入れぬ程で、しかも急坂に西洋館がひしめいていて、親近感のある街並みである。大木に囲まれて緑も多い。西洋館のひとつひとつの全景は木々に囲まれ、板塀が邪魔をし見にくい反面、落ち着きある雰囲気だ。どこか気持ちが落ちつく。横浜の山手界隈との比較も楽しい。狭い範囲に固まっている神戸の方が若い人には人気なのかもしれない。
 それでも、最近は人出が減っていると店の人のボヤキも。街路樹の夜のライトアップも行っているが、夜は人通りがなくなってしまうらしい。

 明日は私の目的、六甲山縦走の予定。

明日から神戸

2013年03月02日 22時19分47秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日朝早く家を出て、2泊3日で神戸を訪れる。私の目的は始めての六甲山縦走と有馬温泉と灘の酒蔵探訪。妻の目的は南京町と神戸市内の散策。これを両方満足するよういろいろコースを考えた。旅行の楽しみというのはこういうことなのだろう。
 普段なか名古屋より西には旅行もいくことは少ない。組合の会議で何回か神戸の西の外れの舞子に泊まったことがあるが、会議の連続で夜景をみたり、散策に自由に出歩いたことはない。
 今回は現役の頃とは違い、ホテルでの夕食も予約していないので、夜の街中を十分散策できると期待している。

 神戸の震災直後の春や夏に訪れたことがある。そして3年目くらいのときにも復興の街の視察に訪れたこともある。震災復興の一環としての商店街の再開発についてはいろいろ難しい現実はあるようだが、どうなっているのだろうか。現役のころとは違った視点で街の中をじっくりと観察してみようとも考えている。

 兵庫県立博物館、神戸市立美術館のホームページを検索したが、残念ながら見たいものは開催していなかった。またの機会に訪れることとしよう。