東日本大震災から丸2年ということになった。
あの日、横浜にいて勤務についていた私は何をしていたのか、いつも思い出す。横浜の南部のはずれの海から隔たった区内で仕事をしていたのだから、震源地にも遠く、津波にも無関係でいた。だから何をしていたのか思い出すことに特に社会的な意味があるわけでもない。
ただ個人の思いとして、社会的な事象と自分をつなげる契機としてキチンと覚えていたいのだ。
あの日、午後から特に重要な仕事があったわけではなかったと思う。お昼休みが終わって、何本かの電話をとった後、現場調査を1件こなそうということを決めた。仕事柄、一人で仕事の段取りや予定を決めることができた。小さなバールと現場用カメラとバインダーに挟んだ地図と筆記用具を用意して、徒歩で現場に出た。
ちょっとぐずぐずしていたのだろう、14時30分に少し前くらいに事務所を出たかと思う。何の現場調査だったかがはっきりしない。電話に由来する調査だったか、あらかじめ予定していた調査を早めに処理しようとしたのか、覚えていないのだ。バールを持っていたのは確かなので下水道の料金がらみだった可能性は高いと思うが、確かではない。具体的な目的地は覚えているのだが、何ともそれがもどかしい。ただ、歩いていこうとしたルートは覚えている。
安全半長靴を履いているのでそれほど早くは歩けないので通常の10分くらいのところを15分くらいかかった。あと500メートルくらいで目的地というところの小学校の傍を通ったとき、下校途中の小学生が騒ぎ始めた。かなり母親が出迎えていたので、終業式かなにかの尾張だったのかもしれない。コンビニのすぐ傍だった。小学生の悲鳴に近い声がしてしばらくしてから、コンビニから店員が地震だと言って飛び出してきた。それで私も揺れを感じた。
女子の小学生と母親がコンビニの大きな看板がついている柱の根元やその傍の低い石垣に身を伏せていた。私は看板の大きな揺れに気づいて、「柱の傍は危ないからどいたほうがいい」と声を掛けたがまったく聞く様子はなかった。私はコンビニの駐車場で車から離れた場所に揺れを感じながら仁王立ちになっていた。しかし駐車場に駐車している車が、今にも動き出しそうに大きく揺れたので、私は恐怖を感じた。車が動き出して私の方に飛んでくるのではないかと感じたのだ。そしてコンビニの中から商品の落ちる音やビンが落ちて割れる音が聞こえた。
少し揺れが収まったかと思うとまた強い揺れが繰り返されるように感じたが、実際の揺れはどうだったのだろうか。ただ揺れている時間が長く感じたことは確かだ。どのくらいの時間かはまったく想像できなかった。前震にまったく気づかなかった、室内で震度を感じたわけでもないので、遠くなのか近くなのか、の判断も出来なかった。ただ自動車も動き出すこともなく、大きな看板が落下してくることもなく揺れは収まった。
あたりは、駐車場でも、柱の下でも、また反対車線の小学生の列も悲鳴は聞こえてこなくなり、けが人がいる雰囲気はなかったのを確認できた。またコンビニの店員があたふたと店の中に戻っていったが、けが人がいるという様子もなかった。ホッとしてあたりをもう一度見回して、信号が消えていることに気づいた。
多分震度5弱以上の揺れではないかと考え、今自分が何をすべきか頭を巡らした。とっさに考えたのは、
1.今仕事中なので、とりあえず道路管理・下水道管理・公園管理の末端にいるものとしてしなくてはならないことは何か
これについては、すぐ職場に戻ることと約100メートル先にある陸橋のやれる範囲の目視点検、これが頭に浮かんだ。
2.組合の支部長として組合員の安全確認の実施が必要かどうか。
3.妻と母親と娘の安全確認の方法。
とりあえず100メートル先の陸橋に向かい、新しい亀裂の発生の有無や付属施設の不具合を下の道路側から見るのと、上の道路をとりあえず走って路面を確認した。そのとき二つの交差点の信号が点灯していないことを確認した。再び下の道路にもどり、事務所に向かって早足で戻りかけたとき、1台の自家用と思われるワゴン車が猛スピードで信号の点灯していない交差点を徐行せず、かえってスピードを上げるように走りすぎていった。
このとき私は揺れを感じてから初めて身震いがした。あまりにひどい運転だったこともあるが、交通無秩序の出現がこれから出来すると大変な事故が頻発するのではないか、という危惧が頭を掠めたのだ。
途中、揺れを感じたところを10分後にもどったのだが、そこで職場の車に出会った。手をあげて挨拶しただけだったが、すぐにトラックと乗用車を割り振って2名1組で道路・下水・公園の点検に出向いていることがわかった。この職場の指示はずいぶんと早かったと今でも感心している。わずか10分しないで点検範囲の指示と出動が出来ている。
職場に着くと、エンジンの発電機がすでに動いていた。執務室に入ってみると、停電によって暗い中で2台のパソコンにだけ電源が入り、災害点検の入力作業が行われていたが、通信がうまく行っているかどうかはまだわからないようだった。
とりあえず私の点検した陸橋の報告と信号の点滅していない箇所を報告。点検出動の割り振り状況などを聞いて、災害時向けの所内のしつらえを始めた。しかし各自のパソコンも、コピー機もプリンターも動かず、さらには電話機も1台しか使えない。地元や他の公共機関からの情報も、点検にまわっている職員からの情報も受けられず、携帯電話もつながらない。そんな中でようやく災害時の所内のしつらえを終え、点検班の報告がすべて異常なしで終わって一息ついたのが17時過ぎであった。
ここでようやく自分の携帯電話で、他の支部執行委員に連絡を取ろうとしたが、私の携帯電話もまったく通じない。組合の本部の電話も通じなくなっていて、本日の組合関係の連絡は断念せざるを得ないことが判明した。
ただ1回、不意に携帯電話が通じて母親から横浜駅の百貨店で地震にあい、ようやく歩いて家に無事着いた旨の連絡が入った。携帯電話の音声が通じたのは、この日はこれだけであった。
続く。
あの日、横浜にいて勤務についていた私は何をしていたのか、いつも思い出す。横浜の南部のはずれの海から隔たった区内で仕事をしていたのだから、震源地にも遠く、津波にも無関係でいた。だから何をしていたのか思い出すことに特に社会的な意味があるわけでもない。
ただ個人の思いとして、社会的な事象と自分をつなげる契機としてキチンと覚えていたいのだ。
あの日、午後から特に重要な仕事があったわけではなかったと思う。お昼休みが終わって、何本かの電話をとった後、現場調査を1件こなそうということを決めた。仕事柄、一人で仕事の段取りや予定を決めることができた。小さなバールと現場用カメラとバインダーに挟んだ地図と筆記用具を用意して、徒歩で現場に出た。
ちょっとぐずぐずしていたのだろう、14時30分に少し前くらいに事務所を出たかと思う。何の現場調査だったかがはっきりしない。電話に由来する調査だったか、あらかじめ予定していた調査を早めに処理しようとしたのか、覚えていないのだ。バールを持っていたのは確かなので下水道の料金がらみだった可能性は高いと思うが、確かではない。具体的な目的地は覚えているのだが、何ともそれがもどかしい。ただ、歩いていこうとしたルートは覚えている。
安全半長靴を履いているのでそれほど早くは歩けないので通常の10分くらいのところを15分くらいかかった。あと500メートルくらいで目的地というところの小学校の傍を通ったとき、下校途中の小学生が騒ぎ始めた。かなり母親が出迎えていたので、終業式かなにかの尾張だったのかもしれない。コンビニのすぐ傍だった。小学生の悲鳴に近い声がしてしばらくしてから、コンビニから店員が地震だと言って飛び出してきた。それで私も揺れを感じた。
女子の小学生と母親がコンビニの大きな看板がついている柱の根元やその傍の低い石垣に身を伏せていた。私は看板の大きな揺れに気づいて、「柱の傍は危ないからどいたほうがいい」と声を掛けたがまったく聞く様子はなかった。私はコンビニの駐車場で車から離れた場所に揺れを感じながら仁王立ちになっていた。しかし駐車場に駐車している車が、今にも動き出しそうに大きく揺れたので、私は恐怖を感じた。車が動き出して私の方に飛んでくるのではないかと感じたのだ。そしてコンビニの中から商品の落ちる音やビンが落ちて割れる音が聞こえた。
少し揺れが収まったかと思うとまた強い揺れが繰り返されるように感じたが、実際の揺れはどうだったのだろうか。ただ揺れている時間が長く感じたことは確かだ。どのくらいの時間かはまったく想像できなかった。前震にまったく気づかなかった、室内で震度を感じたわけでもないので、遠くなのか近くなのか、の判断も出来なかった。ただ自動車も動き出すこともなく、大きな看板が落下してくることもなく揺れは収まった。
あたりは、駐車場でも、柱の下でも、また反対車線の小学生の列も悲鳴は聞こえてこなくなり、けが人がいる雰囲気はなかったのを確認できた。またコンビニの店員があたふたと店の中に戻っていったが、けが人がいるという様子もなかった。ホッとしてあたりをもう一度見回して、信号が消えていることに気づいた。
多分震度5弱以上の揺れではないかと考え、今自分が何をすべきか頭を巡らした。とっさに考えたのは、
1.今仕事中なので、とりあえず道路管理・下水道管理・公園管理の末端にいるものとしてしなくてはならないことは何か
これについては、すぐ職場に戻ることと約100メートル先にある陸橋のやれる範囲の目視点検、これが頭に浮かんだ。
2.組合の支部長として組合員の安全確認の実施が必要かどうか。
3.妻と母親と娘の安全確認の方法。
とりあえず100メートル先の陸橋に向かい、新しい亀裂の発生の有無や付属施設の不具合を下の道路側から見るのと、上の道路をとりあえず走って路面を確認した。そのとき二つの交差点の信号が点灯していないことを確認した。再び下の道路にもどり、事務所に向かって早足で戻りかけたとき、1台の自家用と思われるワゴン車が猛スピードで信号の点灯していない交差点を徐行せず、かえってスピードを上げるように走りすぎていった。
このとき私は揺れを感じてから初めて身震いがした。あまりにひどい運転だったこともあるが、交通無秩序の出現がこれから出来すると大変な事故が頻発するのではないか、という危惧が頭を掠めたのだ。
途中、揺れを感じたところを10分後にもどったのだが、そこで職場の車に出会った。手をあげて挨拶しただけだったが、すぐにトラックと乗用車を割り振って2名1組で道路・下水・公園の点検に出向いていることがわかった。この職場の指示はずいぶんと早かったと今でも感心している。わずか10分しないで点検範囲の指示と出動が出来ている。
職場に着くと、エンジンの発電機がすでに動いていた。執務室に入ってみると、停電によって暗い中で2台のパソコンにだけ電源が入り、災害点検の入力作業が行われていたが、通信がうまく行っているかどうかはまだわからないようだった。
とりあえず私の点検した陸橋の報告と信号の点滅していない箇所を報告。点検出動の割り振り状況などを聞いて、災害時向けの所内のしつらえを始めた。しかし各自のパソコンも、コピー機もプリンターも動かず、さらには電話機も1台しか使えない。地元や他の公共機関からの情報も、点検にまわっている職員からの情報も受けられず、携帯電話もつながらない。そんな中でようやく災害時の所内のしつらえを終え、点検班の報告がすべて異常なしで終わって一息ついたのが17時過ぎであった。
ここでようやく自分の携帯電話で、他の支部執行委員に連絡を取ろうとしたが、私の携帯電話もまったく通じない。組合の本部の電話も通じなくなっていて、本日の組合関係の連絡は断念せざるを得ないことが判明した。
ただ1回、不意に携帯電話が通じて母親から横浜駅の百貨店で地震にあい、ようやく歩いて家に無事着いた旨の連絡が入った。携帯電話の音声が通じたのは、この日はこれだけであった。
続く。