Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日の花見酒

2013年03月21日 18時54分48秒 | 料理関連&お酒
 さて、本日は昨日見つけた690円の調髪に勇んでいったのだが、なんと11時少し過ぎには女性が4人も待っていた。店の人から大分待ちますよのことで、これは残念ながら断念。690円で予約というわけにもいかなかったので、このタイムサービスを適用してもらいのはかなり難しそうな気配。待っている女性からは何となく冷たい視線を感じて、そして待つための椅子・ソファーももう無いので、オジサンとしては退散せざるを得なかった。学校を大分前に卒業されたような年齢の方が並んでいたので(失礼!)春休みの影響ではなさそう。
 ということで、本日はいつもの1000円の理髪店に出向いて刈ってもらった。

 本日は風が強くて寒い、との予想であったものの予想よりは風も弱いし、その分暖かな陽気になった。午後には上着がいらないようになった。

 調髪に行く途中時間があったので、緑道の桜やチューリップなどを撮影してみた。その画像は次のブログにアップする予定。



 折角の花見をしたので、夕食は花見を思い出しながらおいしい日本酒にしてみようと思い、お酒の安売り店でちょっと贅沢な(といっても4合ビン1365円)純米酒を購入してきた。八重垣という名で、初めて購入した。なかなかおいしい。ちょっと吟醸酒のような味がするが、吟醸酒ほどの強い味わいはない。気に入った。いつもこだわって購入する東北地方のお酒とは違い、兵庫県姫路市のお酒だ。
 先日購入した芋焼酎は半分残っているので、交互に楽しむことにする。



 つまみは、先日購入したオイルサーディンの上にタマネギの輪切り、キャベツ、解けるチーズと海苔をトッピングしたもの。黒胡椒と塩少々をかけてみた。
 600ワットの電子レンジで75度に加熱した後、150ワットにした電子レンジで約6分。
 本当はキャベツのかわりにトマトを細かく刻んで乗せてみたかったのだが、トマトを買い忘れた。タマネギは二分の一個を輪切り、キャベツは一口大を一握りとした。チーズも一握り。野菜は多すぎたかもしれない。私はこのくらい野菜が多い方が好みだ。サーディンの味を楽しみたい方は野菜をほんの少しだけにした方がいいと思う。
 洋風の利用はまた次の機会にすることにした。

 実際に食べてみたところ、塩味が足りなかった。チーズの塩味がもう少し濃いと思ったのだが‥。食べるときに少し塩を足してから食べたが、醤油をたらしても良かったかもしれない。あるいは、調理するとき、野菜の上にサーディンを敷いた方がよいのかもしれない。
 海苔はなかなかいいアイデアであったと思う。

 本日の夕食は、この外には、筍と若布とグリーンピースの煮物、マグロの赤身と若布とワケギ・ウドのヌタ、およびキャベツ・タマネギ・根昆布の味噌汁。筍とウドは私の好物。とてもうれしい。花見の後にはピッタリ。量は控えめでも中身は贅沢な夕食だった。これは妻の作なので写真は拒否された。



青梅の吉野梅郷

2013年03月20日 21時04分42秒 | 山行・旅行・散策
 本日、お彼岸の中日=春分の日。妻は昔の職場の同僚と二人連れ立って、青梅市にある吉野梅郷へ観梅に朝から出かけた。私は留守番、特に予定していたこともなく、退職者会のブロック費の会計帳簿の整理をしたり、日程の整理をしているうちにお昼近くになってしまった。お昼直前に、3日ぶりに10キロ走に出かけた。
 夕食は、妻がお土産を買ってくるのでそれを食べようということになっていたので、特に食事の心配はしないで、午後はブラブラと横浜駅までウォーキング。そろそろ月に1回の散髪かなと考えていると、近くの駅の傍の美容院に「男性客歓迎、平日11時から13時までカットのみ690円」の表示がウィンドウにあった。紙の掲示ではなく、古くからある表示であった。いつも歩いて通っているのだが気がつかなかった。
思わず時間を見たがすでに時間は過ぎているし、本日は祝日。美容院なので何となく入りにくかったが、思い切って店内に入り、「私も対象なの?」とたずねると快く「OK」とのこと。明日にお願いしたいと伝えて店を出た。1000円で散髪を考えていたが、何となく儲かった気分で足取りも軽く、横浜駅まで歩いた。しかしこんな値段でやっていけるのかな、とちょっと店の人に申し訳ない気持ちもある。
 夕食の準備も必要ない、とのことだったので書店で長々と時間つぶしをしてしまった。15時頃までは風もなく暖かであったが、15時以降再び風が強まった。

         

 無事夕食前に戻ってきた妻の話しでは、吉野梅郷の梅はちょうど見ごろを迎えていたとのこと。なかなか見ごたえのある広い梅郷であったらしい。お土産はブランデーで漬けたという14度の紅梅の実の梅酒と「花梅大福」。
 私は青梅市は御岳山と塩船観音、御岳渓谷に行った記憶がある。中学生の頃青梅丘陵のハイキングコースを歩いたような気もするが、はっきりしない。
 もう少し年をとったら、高水三山ハイキングにでも行ってみようかと考えている。


衆議院議員会館

2013年03月19日 22時25分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は、退職者会からの要請で、退職者連合主催の「後期高齢者医療制度廃止・社会保障制度充実」を求める院内集会に参加するため、衆議院第2議員会館まで出向いた。
 暑いという言葉がぴったりとするくらいの陽気の中、久しぶりに議員会館に行った。しかしいつみてもあの人を威圧するような議員会館は好きになれない。警備も年々厳しくなるようで、今回も飛行場の荷物検査のようなエッックス線による透視検査が行われていた。



 さいわい、院内の大きな会議室で行われる集会の参加者にはそのような検査は行われなかったが、あのような検査が日常当然のように行われていることに、大きな違和感を感じた。
 丸の内線の国会議事堂前の駅から議員会館の地下まで駅構内を雨が降っても地下通路を歩いてたどり着けるのだが、こんなものもどうも私にはなかなかなじめるものではない。まぁ好き好んでいくところではないことをあらためて実感して帰ってきた。

 さて昨日の携帯電話の不具合のこと。夜中にシャットダウンをして寝た。朝おきてから、電源を入れてからドコモショップにおもむいて店員に昨日の症状を説明したがうまく伝わらない。そこで店員の前で、昨日はこうなったんだよと示そうと117に電話をかけてみたら、なんとつながる。店員曰く、「不具合の出たときシャットダウンしてみるのも手ですよ」。というわけで無事回復した。あわてた割にはまったくあっけない。拍子抜けした。心配してくれた皆さん、ご迷惑をおかけし、ゴメンナサイ。

お酒の話をもう一題-続きと取りあえずのまとめ-

2013年03月19日 21時33分20秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 3月18日にアップした私のブログ「お酒の話をもう一題」はノンアルコールビールの販売の感想と、子供に酒の席を同席させることに対する思いとが混同されていたようで、議論が止まってしまった。

 ノンアルコールビールの販売のあり方に対する感想としては、法的な規制でない今の段階では、製造者側と販売者側(コンビニ側)が、未成年に対しては販売しないという対応が行われていること自体に違和感はないようだ。自主規制の行方を見守ろうというところだ。
 私も家族にそのような未成年者がいなくて具体的な話でもないので、様子見というのが私の取りあえずの考えになった。あくまでも経験に即してものごとを考える立場からすれば、ということだ。

 未成年者に晩酌を付き合わせるということには、結構抵抗があるし、反対の意見である。私も同じだ。ただ私が家族の今が透けて見えるというようなことを記したら、通りがかり人様が「昔は会社や職場で、先輩たちが、いい飲み会を作ってくれた。しかし、私自身はあまり、後輩たちに、そういう席を作ってあげられませんでした。時代が変わっていっていたのです。楽しく飲める職場が、なくなっていき、若い人たちは、家族で固まっていくしかないと、思っているのだと思う」というコメントをしてくれた。
 私はこのコメントがとてもいいと思った。通りがかり人様もだいたい私と同世代として、通りがかり人様や私が就職した頃は、男社会の名残があり、労働時間も朝から夕方までという職場が圧倒的であった。
 今は、女性も社会で働き続けるようになり、またそうしないと家族の生計が成り立たなくなる社会となってきた。さらに交代勤務・労働時間の不定期化が当たり前の社会になってきた。そうなると職場での飲み会はいきおい成立が難しくなってきた。そんな時代の変わり目を通りがかり人様も私も経験してきたと思う。
 男も女も家族的責任を自覚的に果さなくてはならなくなり、職場秩序よりも家族の存続・維持のための活動に大きなエネルギーが費やされるようになってきている。核家族が当たり前の社会で、子供の面倒を相方の伴侶などに見てもらって、働いている夫や妻は職場での呑みニケーションに出席することが、労働時間の長期化や、相方の交代勤務が当たり前になって(特に女性)、ほぼ不可能になった。お酒を飲む機会や動機や、その場の作り方が私の頃とは大きく様変わりしているようだ。
 仕事でのストレスを抱えたまま「職場と家庭との行き来ばかりが日常」であるような、ほとんどの今の若い世代にとっては、お酒での憂さ晴らしは、子供を交えないと成り立たない状況なのかもしれないと思う。また母子家庭、父子家庭では外でも家でもお酒を飲む機会すらない状況になっているようだ。お酒を飲まないですむならそれでいいのだが、そんなことにはならない。

 夕食が済んで子供との会話も終了した後、ノンアルコールビールだろうがソフトドリンクだろうが、子供がそれらを手にしているのを前に、親はビールの一杯も飲みたくなることがあろうと思う。そのありようまで私は否定することが出来ない。飲んで子供にからんだりしない限り、それは逆にほほえましい一瞬なのかもしれないと思える。
 また両方の親がいる家庭でも、職場の飲み会よりも子供の学校を通した付き合いなどが強まれば、そちらの方のコミュニケーションはいきおい子供同伴の飲み会になってしまうことも多いような気がする。
 私が「居酒屋やファミレスの宴会で子供を同伴にして、しかも子供が放置されて騒いでいることに違和感を持つ」と以前に述べたら、その時の若い組合員から「Fsさんは恵まれていただけだ」といわれたことがある。そうではないと思ったし、居酒屋で夜10時過ぎに子供が走り回っていることには、今でも肯定など出来ない。でもそのような場を設けざるを得ないところに、家庭の実情・家族の現実が追い込まれているのかという視点は必要かと思う。

 そんな家族の今の状況を踏まえながら、いろいろな議論が出来ることがいいと思う。コメントをいただいた方以外からの意見も聞きながら記してみた。まとまらないが、とりあえずの到達点としたい。

竜巻注意報

2013年03月18日 23時25分01秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 22時52分、神奈川県にとうとう竜巻注意報が出たようだ。初めて耳にする注意報のように思う。
 台風が通過しているような風の唸りに、部屋の中のセキセイインコも怯えているようにソワソワしていた。20時過ぎに暗い部屋に籠を持って行ったが、おとなしく寝ないで時々羽ばたく。不安な様子だ。動物は天候に敏感なのだろう。

 こんな日は人間も気分がザワザワと落ち着かない。不安が掻き立てられる。子どももそうだ。太古の種としての記憶のそこが揺さぶられるような気がしないだろうか。大袈裟であろうか。山小屋で嵐をやり過ごす時はもっと不安がつのった。時々太古の日々の、自然と直に向き合った記憶をたどるのも、必要なことだと思う。

 そんなことを考えながら、布団の中で風の音に耳をすましている。






春とはいえ風がすごい

2013年03月18日 21時12分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜では夕方から強風・雷注意報が出ていた。しかしそれにしてもすごい風である。風のうなり声が中途半端ではない。夜になるにしたがいますますひどくなってくる。暦の上で春となってから風の強い日がずいぶんとある。
 列島を南西から北東に通過する低気圧が毎年こんなにたくさん且つ強く発達していただろうか。春は風が強い傾向にあるとはいえ、こんなにすごかったかなと感じる。そして桜の開花がとても早い。低気圧が南からの風を呼び込むのだからしょうがないのだが‥。

 さて本日夕方友人の携帯電話に電話をしようとしたらいくらかけてもつながらない。やむなくメールを打ったらちゃんと届いたし、返信もきた。念のため友人から電話をしてもらったら、着信にはなるが通話できない。さらに念のため自宅の固定電話や妻の携帯電話にかけてみたが、やはり着信するが、通話が出来ない。
 導入したアプリによる不具合なのか、そのアプリを削除したが、それでも通話が出来ない。機械の設定を点検したり、いろいろやってみたが何ともならない。しかも画面の消灯時間を10分にしているのだが、1分で画面が消える。画面消灯の時間を点検したが、設定どおり10分になっている。普段は手動ですぐに画面を消灯してしまうので10分の設定でも十分節電しているのだが、1分未満で消灯してしまうのも困り者である。メールを操作指定途中で画面が消えてしまう。
 いくら音声通話があまりなく、メールを多用する私でもこれでは困る。購入して10ヶ月ばかりの機械がもう寿命というのも納得できない。明日ショップにいって調べても来しかなさそうだ。
 

お酒の話をもう一題

2013年03月18日 11時34分25秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 コンビニでビールの棚の前に立ったら「ノンアルコールビールは未成年者には販売しません」との表示がぶら下がっていた。
 はじめは別に気にもとめなかったのだが、考えてみるとアルコールが含まれていないのにどういう意味なのかな、と不思議な気がした。
 最近は便利になった。ネットで「ノンアルコール 子どもの購入」で検索したら、こんな記事が出てきた。

 『現在、ビール大手四社が販売するノンアルコールビールは、アサヒの「レーベンブロイアルコールフリー」(アルコール分0・5%未満)を除けば、アルコール分は0・00%。レーベンブロイ~を含めて酒類ではなく、清涼飲料水に分類されるので、子どもが飲んだり、子どもに飲ませたりしても、処罰されないのだ。
 ところが、二〇〇九年四月に業界で初めて、アルコール分を全く含まない「キリンフリー」を発売したキリン広報部は「未成年者は飲むのをやめていただきたい」ときっぱり。
 理由を、「そもそも飲酒運転の撲滅を目的として、二十歳以上に向けて開発した。子どもが飲むと、飲酒のきっかけになる恐れがある」と説明する。サントリー、アサヒ、サッポロも同様の見解だ。
 各社とも、小売店に対して、清涼飲料水ではなく、酒類のコーナーに陳列するよう要請したり、飲食店のメニューでは、酒類の欄に記載するよう求めたりしている。
 ビール会社の意向を受けて、コンビニではセブン-イレブンとローソンが、酒類と同様にレジで年齢確認を実施。ファミリーマートは年齢確認していないが、「制服姿など、明らかに未成年者と分かる場合は、販売をお断りしている」という。
 児童や生徒にノンアルコールビールを禁止している学校も小中高複数ある。東京都豊島区の私立十文字中学・高等学校では二年ほど前から、冬休み前に生徒にノンアルコール飲料を飲まないよう指導している。「お正月やスキー教室などで、ノンアルコールビールで盛り上がり、お酒に興味を持つようになるのはよろしくない」と同校。』

 なるほど、と取りあえずは納得。しかしこの記事の最後には反対論も出ていた。反対論には、「高校生はすでに飲んでいるのだし、今さら規制しても‥」という類の論もあるが、これは無視していい反論なので触れない。
 ただし、「私が親だったら、楽しくお酒を飲んでいる時に、中学生の子どもにはノンアルコールビールを飲ませて、一緒に雰囲気を楽しむぐらいはする。一律に禁止するのではなく、この子なら飲ませても大丈夫か、普段の子どもとのかかわりを大事にして、家庭で判断することだ」という意見もあった。

 確かにいろいろな家庭事情がある。親がふっと小さな子供を相手に息抜きをしたいとき、「軽くビールでも飲みながらリラックスしたい」というのはとても良く理解できる。子供が小さくともそんなときの子供はとても大切な伴侶だ。
 子供だって寝る前の時間は大切な息抜きの時間だから、付き合ってくれる子供に食べたいものを食べさせ、飲みたいものを飲ませたい。それが大人の真似をしてみたくてノンアルコールのビールだったとしても悪くはないだろう。そこに親子のきちんとした会話と親が親としての節度ある意識が継続できるならば問題はないだろう。
 親がへべれけになったり、話がくどくなって酔っぱらいの情けない姿態をさらして子供に嫌悪感を与えなければ‥。だから、私は機械的に一律規制するのもどうかな、と思う。
 ただし、私は子供にノンアルコールビールを買いに行かせる気には、さらさらならない。一緒に買いに行けばいいだけの話だ。そこら辺の節度が守られないならば、飲酒の節度も守ることのできない大人のような気がする。


 だが、先の反対論にもとごかピンと来ないものも感じている。
 これは極論すれば、「家族の楽しい会話にお酒がどうしても必要なの?」「子供がお酒を飲んでいる大人の会話に興味があるはずないんじゃないの?」と「大人の一方的な意見の押し付け」と思われなくもない。
 私の体験から考えると、小学生の頃によく酔っ払った父の会社の同僚が家に来て飲んでいた。親族の集まりで親たちが飲んでいる場もよく経験した。しかし私は近寄りたくなかった。つまらないし、こちらに来いといわれても酒臭いし、話が通じるものではなかった。今から思うと、酔っぱらいの慰み者のようなものでしかない。私は一人で本を読んでいるほうが楽しかった、と今でも思っている。
 こう考えると先の論は大人の身勝手な論に聞こえる。
 私も、中学生や高校生になるとちょっとマネをしたくなってみたが、それでも大人の仲間に入っていって、その場で会話をするのは嫌だった。同年代の友達とはそんな経験をしてみたいとは当然思ったが‥。この年代でも酔っ払った大人の会話には嫌悪感があった。日常に子供と向き合うのになんでアルコールが必要なのか、という思いもある。
 一律の規制には首を傾げる一方、販売については最低限の規範も必要とは感じる。お酒にはアルコールだけの功罪ではなく、その場の雰囲気という功罪もあるのだ。ジュースだけ、お茶だけならば無制限に親の酒に付き合わせることは許されるのかといわれれば、それこそ犯罪に近いものを感ずる。


 私のお酒の飲み方からすると、大人は子供など相手にせず静かに飲んでればいいではないかと思う。子供をお酒の相手にせざるを得ない大人って情けないではないか、という思いがする。
 子供が大人になって、私がこの歳になったからこその思いなのかもしれない。子供を引き合いに出して、自分の飲酒を正当化したくないし、それに子供もそんな親に付き合いたくはないだろう。子供にとっていい迷惑だ。大人のお酒は子供には極めて迷惑なものであるという自覚も、大人には必要なのではないだろうか。

 私は一方的に私の思いが正しいとは思っていない。本当にいろいろな家庭の事情があり、親と子の関係も、私の想定外のものもある。
 一概に結論はむずかしいなぁと感ずる。


横須賀の梅ワイン

2013年03月17日 20時41分16秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は温かいおだやかな一日となった。朝遅く起床してから、昨晩気になった江戸切子と薩摩切子のことをネットで調べて、江戸切子というグラスの写真を撮り、ブログにアップした。
 実は薩摩切子が我が家にあったとぱかり思っていたのだが、妻に聞いたら無いといわれた。青と緑のワイングラスがあり、切子様の模様だと思い込んでいたら違うとのこと。ではどこで手に入れたのかと聞いても判らないが、薩摩切子などという由緒正しいものではないという。それ以上私がこだわる自信もないし、意味もないので妻の言うとおりで決着した。
 その上で、退職者会の会報を印刷。無事問題なく印刷できた。両面印刷の場合、片面の印刷後しばらく置いて、十分に紙をしごいて紙の間に空気を送り込んでからでないと裏面の印刷がうまくいかない。紙送りで複数枚が紙送りされたり、斜めに紙送りされてしまう。静電気のためだ。だから最近の両面印刷機能が搭載された機械にしたいのだが、先立つものもない。さらに減価償却の時期はとっくに過ぎているとも思っているが、もっと使い込んでからというのも本音だ。

 印刷が終わったのは昼過ぎ、久しぶりに10キロ以上を走ってきた。自宅から2キロ余りの横浜の環状2号線三枚町の交差点まで出て、そこから2号線を新横浜駅の近く、横浜線とぶつかる地点まで行く。そして同じ道を自宅までもどってくる。陽射しがあり、温かい。ウィンドブレーカーが邪魔になるほど汗をかいた。とても気持ちのよい汗であった。

 日曜日なので夕食は母親も来て3人。妻と母は、私が横須賀の田浦の梅林を訪れたときに購入した「梅ワイン」を開けた。私もお猪口に2杯もらったが、私は甘すぎると感じた。二人は気に入ったようで、残りは二人に任せた。私は芋焼酎を水割りで心地よくなった。
 器は江戸切子の赤のお猪口にした。小さなお猪口に6割ほど焼酎を入れて、水を足して飲んだ。小さなお猪口なので5杯、同じことをした。面倒になったので次回からは琉球ガラスの器に戻すことにした。

 妻からは、「お酒になると面倒を厭わないんだね」といつもの調子で軽く一言。通りがかり人様と大納言様にコメントで何か言われそうだが、まぁ、覚悟しておこう。

江戸切子と薩摩切子

2013年03月17日 12時40分23秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 ブログのコメントのやり取りの中で、江戸切子が出てきた。私も持っているのだが、「江戸切り子は赤と青のお猪口を1組ある。貰い物である。模様はブドウをあしらっていて良いのですが、色合いが少々きつい感じですね」と記載した。
 その後で食器棚をあさってみたら、お猪口1組のほかにビールグラス1組が出てきた。どれももらい物。そしてどちらも江戸切子である。お猪口は退職にあたり組合からもらったカタログショッピングで選択したもの。ビールグラスはやはり退職にあたり職場の親睦会から送られた。



 ビールを飲むのにはこの色は気にならないし、今年の夏場は使っていた。お猪口の方は削ってある模様部分が小さく、全体の色がきつく感じる。(写真写りがよくないのは腕が未熟なため)

 さて、江戸切子のこの色についてちょっと気になったのでネットで調べてみた。そうしたらこんな記事が出てきた。

 「江戸末期に生産された江戸切子は透明な鉛ガラス(透きガラス)に鑢や金棒と金剛砂によって切子細工をし、木の棒等を用いて磨き行った手作業による手摺り工程による細工によって制作されたものと考えられている。江戸切子の文様としては、矢来・菊・麻の葉模様など着物にも見られる身近な和の文様を繊細に切子をしているのも特徴である」
 「同時期の江戸切子との違いは、江戸切子が透明・無色な硝子(透きガラス)に細工を施したものなのに対し、薩摩切子はより細かい細工(籠目紋内に魚子紋等)や色被せと呼ばれる表面に着色ガラス層をつけた生地を用いたものが多く、またホイールを用いた加工の有無が挙げられる。薩摩切子はヨーロッパのカットガラスに範を取り、色被せの技法はボヘミアガラスや乾隆ガラスから学んだもののようであるが、現在に伝わる当時の品には日本的な繊細さが見られる」

 この記述によると、江戸末期の江戸切子は無色透明。同じく江戸末期の薩摩切子が着色ガラスを用いていたということになる。
 ただし、明治期以後は「薩摩切子の消滅による職人と技法の移転や海外からの技術導入により、江戸においても色被せガラスの技法・素材も用いられるようになる。色ガラスの層は薄く鮮やかなのが特徴。加工方法も、文様を受け継ぎつつ手摺りからホイールを用いたものへ移行していく」という展開になったということらしい。

 さらに廃れた薩摩切子について「薩摩切子の特徴として特にその色の層の厚さがあり、これに大胆な切子を施す事によって切子面に色のグラデーションが生まれる。これが色被せ薩摩の特徴で「ぼかし」と呼ばれるものである」との記述もあった。

 同じ切子といってもこのように差があり、そして技術が変遷していたとは、驚きだ。江戸切子といって今売られているのはまず色着きのものだと思うが、昔ながらの透明なガラスを用いたものもあるのだろうか。そんなお猪口が欲しいが、これは贅沢ということで諦めよう。

 もとの私の記述では、江戸切子はそもそもこの色が売りだったような認識だったが違っているのだそうだ。ただし紋様は私の持っているもののような紋様が主だったようだ。深い彫りの幾何学模様は薩摩切子の特徴らしい。


 薩摩と江戸、切子という技術の確立と二つ相違、産業としての歴史、技術や職人の往来などを探ると幕末から明治にかけての動乱期の諸相が見えて来る。
 なかなかの研究課題のようだ。

 



シンポジウム「一茶と井月」及び講演「ラファエロ展を楽しむ」

2013年03月16日 22時26分39秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 本日は12時からが神奈川大学のキャンパスで宇多喜代子、大串章、金子兜太、黛まどか、復本一郎各氏による「一茶と井月」と題したシンポジウムを聞いた。といっても次の予定があるので、12時25分までしか聞くことが出来なかった。復本一郎氏の基調的な話と、金子兜太・宇多喜代子氏の発言で時間となってしまった。残念であるが、シンポジウムの核心までは聞くことが出来なかった。
 そして13時からは以前から申し込んでいた「ラファエロ」の展覧会にあわせた成城大学教授石鍋真澄氏の講演会も桜木町のランドマークタワーである。
 エルグレコ展の印象がかなり強烈だったので、そのような劇的な場面構成ではないラファエロの絵画、どのように鑑賞したらよいのか皆目わからない。講演も私にはなかなか理解できないものがあったが、それでもラファエロの絵がレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロの絵を模倣したものがかなりあるとの話を聞き、鑑賞の糸口を教えられたような気がする。

 さて、大納言様のブログで取り上げられたオイル・サーディンを購入してみた。特に安くはないスーパーであったが、1缶268円也。

   

 スペイン産なのだが、下の絵のように「原材料 いわし、オリーブ油、食塩」とのみ記されている。日本の缶詰ならば、さまざまな添加物が記載されるような製品だが、これはいたってシンプル。実はトマト味のものもあったのだが、これはこの缶詰に自分でトマトピューレを加えて加えてもおいしそうなので、このシンプルな製品を購入した。
 さてどんなオカズとしようか。これから研究してみることにしよう。

<追記>
 上に「日本の缶詰ならば、さまざまな添加物が記載されるような製品だが、これはいたってシンプル」と記載したが、コメントにもあるように、日本製品も添加物無しで販売していた。これは大変失礼をした。今度から国産品を探してみることにする。



 明日は組合の退職者会のブロックの会報(A4版カラー裏表)を60部印刷する予定。プリンターに故障が発生しないよう祈るのみ。



温かい一日‥明日は桜開花日か?

2013年03月15日 21時27分01秒 | 料理関連&お酒
 異状に早い桜開花日との予想だが、果たしてどうなのだろうか。暦の日付に対してあまりに早い桜の開花、ちょいと風情に欠けると思うが、周囲の人は桜の開花をとても期待している。こんなところにも私の孤立感がふと顔を出す。

 さて、明日は12時からが神奈川大学のキャンパスで宇多 喜代子、大串 章、金子 兜太、黛 まどか、復本 一郎による「一茶と井月」と題したシンポジウムがある。そして13時からは以前から申し込んでいた「ラファエロ」の展覧会にあわせた成城大学教授石鍋真澄氏の講演会も桜木町のランドマークタワーである。
 12時15分くらいまで神奈川大学のキャンパスにいて、それから大急ぎで白楽ないし東白楽に行き、東横線・みなとみらい線でみなとみらい駅経由でランドマークタワーに駆けつけるしかない。そうなるとシンポジウムはほとんど聞くことが出来ない。資料だけをもらいに行くことも選択肢があるかもしれない。

 明日のラファエロの講演会の下準備としてこれから、ネットで「予習」ということにしよう。

 その前に本日の贅沢はこれ。昨年から今年にかけてかなり購入した芋焼酎をまた購入してみた。慣れた味というのもいいものだ。

   

 隣にあるオレンジ色のグラスは昔沖縄を訪れたとき購入した琉球ガラスの製品。購入したのはもう20数年前になるのだろうか。
 芋焼酎のお湯割りや泡盛を飲むときは必ずこのグラスで飲む。当初は同じ形で沖縄の海を思わせる青いグラスも購入したのだが、熱湯を注いだら割れてしまった。急激な温度変化には注意するよう購入したとき言われていたのだった。ヒビでも入れてしまっていたのかもしれない、と思っていたら妻に「購入したときの注意を忘れている」と怒られた。とても惜しいことをしたと悔やんでいる。


ルーベンス展&ラファエロ展

2013年03月14日 20時53分19秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 私のブログにリンクの張ってある「時には本の話でも・・・」でルーベンス展を2回に分けて取り上げている。
 このブログはとても勉強になるブログ。私もずいぶんと教えてもらったことがある。これからも絵画や音楽についてたくさんのことを教えてほしいので、ブログが継続することを切に願っている。

 さて本日はこのルーベンス展(東急文化村)の前売りチケットをチケットショップで購入。いつ見に行くか悩んでいる。会場は19時までなので、夕方以降が狙い目だとの情報がある。しかし春休みという時期をずらしたほうがよりゆっくり見ることができそうだ。

 このルーベンス展とラファエロ展、どちらも見逃すわけには行かない。どうしてこのように美術展は重なってしまうのかな?とぼやきながらも、今年の春は、充実した年になりそうな予感がする。

 当分はカトリックの勉強も兼ねなくてはいけないようだ。少しこれはしんどいかな?


大倉山梅園

2013年03月13日 21時08分54秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は観梅には少し遅かったのだが、横浜の大倉山の梅園に梅の花を見に行った。よく晴れたが、南風が強く異常に温かい陽気だった。風速20mを越えたようだが、梅園に赴いた14時頃は少しだけ風が弱まっていた。
 園内では紅白のアセビ、ミツマタ、ジンチョウゲなども満開。ユキヤナギも開花していた。
 平日ということもあり、訪れている人は少なく、ユッタリと梅を見ることができた。
 園内では高校生(ひょっとして中学生?)の写真クラブと思われる一団が、梅の花を題材に撮影にいそしんでいた。その中に一人がずいぶん悩んでいたらしく、携帯電話のカメラを使い梅を適当に撮影していた妻に、「梅はどのように撮影したらいいんでしょうか」と聞いたという。何とも情けない話ではあるが、まあ正直な気がしないでもない。妻はずいぶんとあわてたようで、「さぁ」としか応えられなかったそうだ。さもありなんと思った次第だ。

 夕方以降、黒く低い雲が空を覆い、風がより強まってきた。夜になってますます風の唸りが強まっている。

★梅一輪衣一枚脱いで見る

                                                   

東日本大震災から2年-当日の記憶3-

2013年03月12日 20時34分49秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
-前回の2で書き漏らしたことの補足-

 歩いて帰宅する途中、横浜駅の近くでこの区を所管とする私と同様の職場の現業職員が乗るトラックに追い抜かれた。もう深夜12時になろうかという時間帯であった。多くの人が行き交う中、私を見つけてトラックから私に声を掛けてくれた。
 乗車していた仲間はいづれも私の組合の組合員で、くたびれていると思われるもののその明るい表情からその職場にけが人などはいないことを十分察することが出来た。そして「支部長の職場は解散が早いけど大丈夫なのかい」といってくれた。思わず「私などの年寄りは必要なかったようだよ」と返事をしたのだが、乗っているリーダーは私より一つ上で31日には定年となる仲間であった。私の返事が頓珍漢であったと反省をすると共に、現業の仲間がキチンと災害配備に位置づけられていることを実感し、とてもうれしかった。

 現業職員というのは、自治体で働くいわゆる行政職の事務・技術職とは違い、「単純労務」と位置づけられた職員である。ゴミの収集や施設管理、道路・公園・下水道などの維持管理、学校用務・給食調理などに従事する。「単純労務」と規程されているが、各種施設の維持管理をはじめどの職場も行政の基本に精通していないとこなせない仕事であり、仕事は「単純」ではない。市民とも直接接する中で行政指導もこなさなくてはならない立場は、事務・技術となんら変わるところはない。
 私共の組合は、この現業職員の業務が行政の一環としてキチンと位置づけられ、「単純労務」と落とし込められることなく、働きがいをもって業務に位置づけらるよう、組合再建以前も以降もひたすらそのことを具体的な要求提言を行い、人員体制の確保を使用者側に求めてきた。
 災害時の現業職員の業務の位置づけは行政としてもっとも基本的な課題である。また、当該の組合員自信がそのことに自覚的になることがもっとも重要であると組合員にも訴えてきた。
 この日、被害の大きかった横浜駅を所管とする職場の現業の仲間が、深夜でも走り回って業務をこなしていること、それも生き生きと携わっていることを目の当たりにして、私としては大変うれしかった。
 降雪時や大雨、通常の小規模な事故などの日常の災害でも位置づけられていることは確認してきたが、この未曾有の災害時に存在感をしめした現業の仲間の存在は組合のこれまでの取り組みが無意味ではなかったとあらためて思われ、感慨深かった。ことに私に声を掛けてくれたトラックに乗っていたリーダーは昔私と同じ職場にいて、私にスポーツというか体を動かすことの楽しさを教えてくれた恩人でもある。

 その時の状況から、あらためとこの震災の日と、それ以降の後処理で各職場の現業職員の位置づけについて後日組合として点検をしたが、どの職場も当然のように現業職員が第一線に位置づけられ、特に初期対応で大きな存在感を示していた。大変うれしかったことを今でも覚えている。

 現業職員は議会やひどい政党などからいわれのない業務切捨ての圧力を常にかけられ、人員と業務の縮減を強いられている。この圧力に抗して、引き続きこの職場と仕事の位置づけが行われ、働きがいのある職場として生き残ってほしいと切に願っている。

東日本大震災から2年-当日の記憶2-

2013年03月12日 14時02分47秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 執務室では発電機のおかげで現場照明用のライトを点灯したが、全体を照らすものではないので、一部しか明るくならない。人は暗いと落ち着かないもののようで、私も気分がざらついた感じが継続していた。さらに区内全域が停電であることが判明し、職員全員の不安感が増してきた。
 テレビについてはこの発電機で見ることが出来、事態の深刻さがわかった。また交通全般が関東でも麻痺していることも伝わってきた。津波の話もチラホラと伝わってきたが、あのような深刻な事態であることの認識は伝わってこなかった。
 そして私は、他の執行委員への連絡も取れず、妻と娘に連絡が取れない。メールを打っても返信がいづれもまったく来ないのだ。それも気分が落ち着かない原因でもあったが‥。金曜日ということもあり、土・日は携帯電話の番号を知っている組合員以外連絡のしようがなくなる。

 17時過ぎに他の職員が近くの数件のコンビニでレトルトの味噌汁とカップ麺を調達してきた。これもなかなかの好判断であった。夜になるとコンビニでは食品類は売れきれ、棚は空っぽになった。ガスと水道は供給されていたので、19時近くには職員はこれを食すことが出来た。全員の分はなかったので、予想される要因の縮小の時に、残留すると予想される人を中心に食した。
 この時間帯、私の携帯電話は電池切れ寸前。通常の通信は出来ないのだが、緊急地震速報はやたらとくる。受診するたびに電池の残量がどんどん減っていった。充電器は持っていたものの発電機の貴重なコンセントを使うのは気がひけた。しかし仕事の合間に見計らって、コンセントが空いた時間を利用して、3回ほどに分けて充電した。組合員との連絡にどうしても必要、と言い訳を上司にして目をつぶってもらった。この時、充電池を普段持参することの大切さを認識した。

 19時を大分過ぎてから、点検結果をまとめて所管内はがけ崩れも施設の損壊もないとの判断をして、居残りの人員を縮小することとなった。職種・係ごとの均衡、それぞれの家族事情などを考慮しつつ、約半分くらいにしたのだったろうか。その割合については私は記憶にないのだが、私は居残り組からは外れた。私の係は59歳の私よりも若い職員ばかりなので、年寄りがしゃしゃり出ることもなかったようだ。あらためて自分の年齢を実感した。

 しかし20時近くに駅に行ったが、JRの駅のシャッターは閉まっており、運行情報を駅員に聞こうとする人が幾人もいたが、駅員の姿はなかった。駅前のバスも長蛇の列でいつ来るかわからない。やむを得ず、自宅までおよそ18キロを歩いてかえる覚悟をして、幹線道路を歩き始めた。駅前付近の二つの信号のある交差点では、地元のボランティアによる手信号による誘導が行われており、私が心配したような交通無秩序は見られなかった。
 しかし街路灯は点灯しておらず、時たま通る自動車の明かりがありがたかった。途中自動販売機を利用してお茶やジュースを買おうとしたが、停電でまったく利用できない。その上、隣の区まで商店や食堂がない道である。チラホラと横浜の中心部のほうから歩いてくる人とすれ違う頻度が増えてきた。皆大分くたびれている様子ではあったが、それでもこの時刻では横浜の中心部か最寄の副都心あたりに勤めていた人々と思われた。
 若干の登りで峠道のようなところを過ぎてすぐ隣の区に至り、突然あたりが明るく感じた。街路灯と自動販売機が点灯していた。この明かりでずいぶんと気分がほぐれてきたように思った。さっそく自販機で温かいコーヒーを購入し、一息つくことが出来た。信号も点灯していた。
 バス路線に沿って歩いているのだが、バスは上りも下りもまったく通過しない。横浜駅を通り過ぎた先の自宅まで歩くことを再度覚悟した。前年の秋口に自宅から職場まで歩いて出勤する参集訓練は、朝から昼にかけての時間帯であったし、人通りも多かった。今回は暗いし、最初は人通りも少なく心細かった。私でもそう感じたのだから、体力に自信のない人、遠くから通っている中・高校生などはさらに不安であったのではないだろうか。
 この間も家族に電話をかけたり、メールを幾つも発信したがまったく返信がない。この隣の区内の三分の一を過ぎたあたりのバス停では10人くらいが待っていた。そのチョッと手前で、突然横浜駅方面に行く市営バスが私を追い越していった。あわててバス停まで走り、乗ろうとしたが待っていた人が乗るのを躊躇するくらいギュウギュウであった。しかし市営バスの運転手は「次は当分来ないので詰めてください」とのアナウンスをして、最後の私が乗るまで発車を待ってくれた。やっとの思いでステップに足をかけて乗り込んだが、あまりの混雑で、緊急地震速報がいくつか携帯電話に着信したものの取り出すことも出来ない。朝のラッシュ時の通勤バスの満員などよりはるかに多くの乗客が乗っている。あとから携帯電話を見るとこの時間帯、契約している気象情報から地震の震度情報がいくつか入るようになっていた。しかし家族からのメールも、他の執行委員からのメールも着信はなかった。
 隣の区の中を通っていくうちに渋滞がひどくなり、区役所の傍でまったくバスが動かなくなった。この渋滞で何人かの乗客が降りたので多少は身動きが出来るようになった。区役所へ駆け込む人が幾人かいたので、便所を求めて降りたようだった。これで多分通勤ラッシュ時の満員程度に乗客は減った。このあたりから歩道は関内方面から歩いてくる人でいっぱい。車がいっぱいの車道にも人が溢れて歩いていた。これを逆に歩いていくのはつらいかな、とバスに乗り続けることを選択した。
 この時点でようやく妻からメールが届いた。ただし「今、○○を通過中」とだけで要領を得ない。しかもどうも大分前に発信したような形跡があり、メールての通信の混乱が察せられた。
 だが、この区を通過して、さらに次の区に入ったときはすでに10時半を過ぎていた。バスは道行く人よりも極端に遅い。この先は関内の中心街であり、さらに渋滞が予想されるので、先ほどの決断は撤回して、最寄のバス停で私も降車して歩くことにした。途中のコンビニでパンかおにぎりを食べようとしたが、棚は空っぽ。かろうじて残っていたのはケーキで私は食べる気にはならなかった。しかしトイレが開放されているのでコンビニはずいぶん繁盛している。カップ麺はそろっているのだが、お湯の沸くのが間に合わないらしく、これを求めて人が並んでいた。大きなやかんも利用してお湯を供給していた。
 次に気がついたのが、1本裏道はまったく自動車や人が歩いていないこと。街路灯はないが防犯灯は点灯しており、問題ない。自動車も人もこの近辺の地理に詳しくない人が主要道路に殺到しているのだと思った。また自動車も渋滞に嵌ってしまって簡単には裏道に入ることのできる情況ではなさそうだ。裏道に自動車が少しでも回ればあの渋滞もずいぶん解消できるはずであった。緊急輸送路の確保も必要だが、この裏道情報もいざというときには大切であると感じた。
 私は歩道から溢れる人の流れに逆行して歩かなくてはいけないので、躊躇なく裏道をひたすら横浜駅に向かって歩いた。ほとんど人は歩いていない。表通りとまったく違う様相である。歩くのは自信があった。携帯電話の電池の残量が再び半分以下になり不安になってきた。
 桜木町では町内会館に役員が陣取り、便所・休憩・お茶を用意していた。これはずいぶんと気がきく対応だなぁと関心した。
横浜駅を海側から陸側に向かってとおり抜けようとしたが、人が溢れかえっている様子なので、北側に迂回した。
 この横浜駅では揺れのあと夕方大変な混乱であったとあとから聞いた。横浜駅で溢れた人を市の職員がMM地区に誘導したところ、途中で津波情報で警察の判断はそこはまずいということになり、ずいぶんと混乱したとの話が後日伝わった。避難所設営の現場ではずいぶんと苦労が多かったようだ。食事がないとクレーマーのように食って掛かられ、人の誘導など他の業務が出来ないなどの事態も起きたようだ。

 私は、12時半過ぎにようやく家にたどり着いた。空腹であったが、もう食事をする気力はなく、熱いお風呂で汗を流して人心地がついた。

 妻も私が帰宅したときにはすでに帰宅していた。話を聞くと、渋谷よりも先にある職場からずっと歩いてきたらしい。私へのメールは歩いていた地点の報告だったようだが、妻の携帯電話の電源もすくなっており、かなりあわててメールを打ったようだ。
 それよりも感心したのは、職場から線路沿いに菊名駅の傍まで歩きとおしたということであった。そこまで来て電車が動き始めるとの情報を得て、電車にかろうじて乗り、12時近くに帰宅したらしい。私よりも歩いたと思われる。妻は少なくとも20kmは優に超す距離を歩いたことになる。ちなみに私は13kmほどであったと思う。妻の体力を見直したものであった。

 翌日、土曜日以降支部の他の執行委員に連絡が取れ、その範囲では組合員にけが人のいないことが判明。さらに月曜以降職場に点在している組合員への安否確認の分担を決めることが出来た。娘とは妻のメールで連絡が取れたと記憶している。そして組合の本部に出向いて組合員の状況報告をしたが、なかなかこちらでも情報が伝わってこないらしかった。