Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「ハマスホイとデンマーク絵画」展 その4

2020年02月20日 08時22分41秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 4つ目のコーナーにハマスホイの作品が37点並ぶ。「ヴィルヘルム・ハマスホイ――首都の静寂の中で」という名を冠している。
 図録の解説には「ヴィルヘルム・ハマスホイ(1864-1916)は、‥1888年と1890年にハマスホイを含む若手の芸術家たちが開催した「落選展」を経て、1891年の「独立展」の設立に結びついていく。ハマスホイは進歩的な芸術家たちの象徴的な存在となった‥。洗練されて、それでいて控え目な美意識を映し出すその作品は、物静かで慎み深い画家の人となりを示している。」「時間の遺跡を感じさせる美しい部屋と後期帝政様式の上質な家具、穏やかな光、調和した色彩、そして何よりも語らない後ろ向きの女性。幼い頃から見慣れていたはずの街中に建つ聖堂や、シェラン島のなだらかな農耕地は人影はない。ハマスホイが描く、洗練された美的空間は、急速に発展を遂げる首都から消えていく古い文化の残影のように、近代の都市生活に特有の郷愁と、ある種の諦念を誘う、静謐な空気を漂わせている。」と記されている。

 37点の内、気に入ったものは15点ほどもあった。11点ほどが特に気に入っている。

   


 まずは人物を正面から描いた作品。1891年の「夜の室内、画家の母と妻」(デンマーク国立美術館)と、1895年の「三人の若い女性」(リーベ国立美術館)。ハマスホイは画家仲間のイルステズの妹イーダと結婚する。その結婚前後の作品に複数の女性を描いた作品があった。前者は題名からわかるとおり、妻になるイーダとハマスホイの母親を並べて描いている。
 この作品は二人の世代の違ういわゆる「嫁と姑」である。二人の間には会話はない。共同で何かの作業をしているわけではない。視線も合わせていない。妻は編み物をしている。母と何をしているかは不明。
 その3で触れたとおり、光線は右からさしているけれども安定感のある構図である。光は妻イーダに主として当たり、母親には少し影になる。だが二人はこの場面で充足している。近世の絵画ならば共同で何かの作業をするなどの濃密な関係が描かれたかもしれない。しかし近代の都市生活者の家族の関係を象徴しているかのように、濃密な関係ではないものの、そこには充足した暖かな関係が描かれているように見受けられる。
 これと正反対の作品が1895年の「三人の若い女性」である。血族ではない3人の親族を描いている。左端の黄色の服の女性は画家の妻イーダの兄の妻、中央が画家ハマスホイの妻、右端はハマスホイの妹。この3名は、画面上では互いに重なって描かれている。スカートが接しているけれど、それ以上に窮屈に重なっている。相互の位置関係が不自然な配置である。三人の肖像画を強引にひとつの画面の中にはめ込んでいる。視線は交わっていないばかりか、視線を避けるようにしている。三人の周りには打ち解けない緊張感がある。三人には複雑な感情のもつれがあるのだろうか。あるいは画家は敢えてそのようなドラマを用意したのだろうか。 

 ハマスホイという画家は、数少ないモデルを描きながら、その描く人物相互の関係、葛藤を表現しようとした、という解釈を私はしてみた。ただし、解説にはこの3者の関係がきびしい状況だったことには言及はない。室内の時間の集積や、その構成的な秩序へのこだわりではなく、物と物、人と人の関係をフィクションとして画面に表そうという志向があったのではないだろうか。

            

 次は人物が1人の室内画。1898年の「室内」(スエーデン国立美術館)、1903年から04年に描かれた「背を向けた若い女性のいる室内」(ラナス美術館)、1910年の「ピアノを弾く妻イーダのいる室内」(国立西洋美術館)。
 ハマスホイの室内画には後ろ向きの人が描かれる。ほとんどは妻イーダらしい。ここに掲げた2点を見たときの私の印象は、人が描かれているのに人間の匂いがしない空間を描いている、というものであった。先週訪れた写真家のソール・ライターとは正反対だと感じた。
 縦と横の直線が交差し、大きな壁の面を丁寧に塗り、左右からの柔らかな光線のかげを柔らかなぼやけた直線で斜めに描いている。これだけでは構図上単調になるので、鏡や人体で曲線を配置しているのだと思った。
 室内のテーブルや机や陶器などは室内に存在する時間、建物の歴史、住んでいる家族の記憶を呼び起こす契機になるものとして描かれている。だから匿名性を確保するために顔は描いていないのだと思った。
 今回「背を向けた若い女性のいる室内」を見て、「室内」とは違った女性の描き方に戸惑った。こちらの女性は盆を持つにしては少し強めに体を右に傾けている。髪の毛の描き方もかなり丁寧である。人体全体として細部までこだわって描いている。単に記憶を呼び戻す契機となるための造形だけではない人体の配置に気がついた。ここはまだ私の中ではうまく説明がつかない。
 そして三枚目の「ピアノを弾く妻イーダのいる室内」については、人体も小さく遠景に配置しており、匿名性が顕著なのだが、表題であえて「妻イーダ」と記している。作品だけを見ればは「匿名性」があるのだけれども、表題でこのように具体的に特定されると、私の見方に変更が必要になるのかもしれない。
 さらに手前のテーブルやその奥の机は画家の愛用のものであると解説に記されている。ならば画家と妻イーダの間に横たわる親和性、そして充足感を少ない調度品に託しているということが出来る。そこにピアノの音が配置され、より二人の関係の好ましい親和性が強くなる。

 普遍性と個別性、この二つの要素が複雑に絡み合ってなかなか一筋縄では理解できない。
 共通して漂ってくるのは、室内画にただよう時間とそこに住んでいた人と調度品の穏やかな関係である。生々しい人間の痕跡を消し去ったあとに残る、穏やかで充足し、調度品と一体となった「時間」が浮かび上がってくる。
 
 ハマスホイの直線へのこだわりがよく指摘されるが、私は先ほどの室内画たけでなく風景画にも、曲線へのこだわりを感じた。描かれる曲線が穏やかでのびやかで、気持ちを和らげてくれる。

   

 今回は、1906年の「スネガスティーンの並木道」(デーヴィス・コレクション)とおなじく1906年の「ロンドン、モンタギュー・ストリート」(ニュー・カールスベア彫刻美術館) の2点が目についた。
 「並木道」のほうの草原の地平線のなだらかな起伏が私は好きである。人工的な下方の道路の強い直線に対して、樹木の幹の縦の線も柔らかい曲線を感じさせるが、やはり地平線の起伏がより私の目を和ませてくれる。
 次の「ロンドン‥」の下部の道路と柵の曲線に私は目が釘付けになった。何の変哲もない曲線である。どこにでもある道路に表れる曲線である。しかし手前の拡がりを強調し、消失点の遠さをより強調している。多分実際の距離以上に奥行き感が出ていると感じた。
 がっちりとした直線に囲まれた建物が、縦の線が密な柵で囲われているけれども、この曲線に沿った曲がりで柔らか味を出している。どんよりとした大気とともに画面から直線の強さが消えている。
 さらに、どちらの作品でも樹木の美しさもまた際立っている。



 そして樹木の美しさを描いた作品は1904年の「若いブナの森、フレズレクスヴェアク」(デーヴィズ・コレクション)である。左から右下に斜めの地面が描かれている。この斜めの線が独特なのである。霧が地面から立ち上がっており、その空間が丁寧に描かれている。樹林の奥行き感がいい。
 長谷川等伯の松林図屏風も、松とブナで樹木に違いはあるが、ともに私の好みである。

 


明日は講座と取材

2020年02月19日 23時30分18秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 先ほど夜のウォーキングから戻った。「ハマスホイとデンマーク絵画」展の感想のその4を造り始めた。しかし前半は出来たが、まだ完結しない。明日の朝までになんとかまとめたい。本日中にアップするつもりであったのに、間に合わなかった。

 明日は10時から講座、13時からは退職者会のカラオケのイベントの取材。カラオケは苦手だが、取材ということでやむなく。写真を撮るだけ。

 講座は「比べて楽しむアート鑑賞~美術と社会の関り~」(講師:中村宏美氏)。という3回連続講座。1月の第1回は白内障手術で参加できなかった。2回目の明日は「世紀末に花開いた粗食芸術「アール・ヌーヴォーと日本美術」。楽しみにしている。
 


紅梅

2020年02月19日 19時48分53秒 | 俳句・短歌・詩等関連

★ひらきたる薄紅梅の空に触れ      深見けん二
★紅梅やゆつくりとものいふはよき    山本洋子

 すでに散ってしまった梅もある。今誇らしげに花を咲かせている梅もある。紅梅には晴れた空がよく似合う。空の色が濃くかがやいて紅梅の色と響き合う。
 私は白梅よりも紅梅が好みである。それも晴れた日の、空が大きくひらけたところに咲く紅梅が好きである。空が小さい路地の紅梅には心底同情してしまう。あんなところに紅梅を植えるなんてもったいない、といつも思う。

 第1句、枝の先に咲いたほのか紅色をした梅、確かに青い空にとどくように色を発している。枝の長さは当然にも空には届かないが、その色は何処までも上昇してあの青い空に届いている。そのように思う感性を大切にしたい。
 第2句、多くの女性は老若を問わず、テレビの影響だろうと思うが、頭のてっぺんから発するように甲高い声で、しかも早口にしゃべる。それも喉に過剰な力を入れで。自然な発生からは程遠い甲高い声を出す。それが「かわいい声」なのだそうだ。私にはとてもではないが、その価値観は理解できない。
 紅梅が満を持して綻び、開花するさまは、重みがあり、そして人々に春の間近なことを知らせてくれる。堰を切ったようにとどめようもなくしゃべり散らすおしゃべりは申し訳ないが、あまりにけたたましくて、軽々しい。一つ一つの発語にこめられた思いは、ゆっくりとしたほうが伝わる。梅のほのかな紅にもそんな重みを感じる。


はかどらない作業

2020年02月19日 12時27分06秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 午前中は、ハマスホイの作品をいくつかスキャナーで取り込んだり、退職者会ニュースの原稿作りの下準備をしたりしているうちに正午になった。

 妻は所用で出かけたので、昼食はこれより一人分をつくる。昨晩の残り物と残った餅で適当に‥。


明日はネジを少し巻いて・・・・

2020年02月18日 22時47分16秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日はあまり作業は進まなかった。クシャミと鼻水とセキが出るようになった。

 「ハマスホイとデンマーク絵画」の三回目のアップ。あとはハマスホイの作品をいくつか取り上げる4回目で終了。明日、明後日の裡に終了したいのだが‥。

 明日も穏やかな日和らしい。最高気温は12℃の予報。3月中旬並みらしいので、約1か月も天気が先行していることになる。サクラの開花もかなり速いということも云われている。

 明日は予定は空白。退職者会ニュースの作成を少し本腰を入れて前に進めたい。同時に23日に向けてスペイン、特にカタロニアの歴史の本を読んで頭の整理をしたい。できれば本の紹介の簡単なレジュメなども作りたい。

 


「ハマスホイとデンマーク絵画」展 その3

2020年02月18日 20時37分10秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 第3のコーナーは「19世紀末のデンマーク絵画――国際化と室内画の隆盛」となっている。解説では19世紀末になり、王立アカデミーなどの愛国主義的芸術館に対して、自由な作品発表の場が模索され、デンマーク美術は国際化していった。
 また、「画家の自宅の室内を主題とする絵画が人気を博した。「幸福な家庭生活」のイメージを通じて「親密さ」がデンマーク絵画の特徴のひとつとなった。しかしその表現は変容していき、1900年代頃には、無人の室内を描いた作品に象徴される、物語性が希薄な室内画が顕著になる。‥画家たちはモティーフの配置や線と面の構成、色彩の調和、繊細の光の描写といった絵画的要素の洗練された統合を追求していった。ハマスホイの室内画は、そのもっとも先鋭な表現である。一方で‥同世代の他の画家たちは、ハマスホイほど禁欲的ではなく、‥広い層に受け入れられた。」と記されている。

 このコーナーでは私は3点の作品に惹かれた。



 1点目は、ヨハン・ローゼの「夜の波止場 ホールン」(1893、ヒアシェブロングコレクション)。
 ホイッスラーの作品の影響、江戸後期の風景を描いた浮世絵、時代は下るが川瀬巴水の版画作品などを思い浮かべた。水面とそこに映る夜の風景を大きく描きき、実に静かなたたずまいである。特に右上に横一直線にならぶ街灯のあかりが美しい。
 実際には暗い夜にこんなに細かく水面に影は映らないと思われる。心象風景の要素もあると思われる。
 また左側の建物の影が、それよりも右の船や陸地の影よりも大きく、バランスを欠いているが、黒の色の配置のバランスとしてはかえって左右の釣り合いが取れているので、私はあまり違和感を感じなかった。



 次はピーダ・イルステズ「アンズダケの下拵えをする若い女性」(1892、デンマーク国立美術館) 。フェルメールの影響が強い作品である。同時に二つのことを感じた。ひとつは光のあたる方向が右から左である。これは解説をしてくれた中村宏美氏からの指摘である。デンマークの絵画は左からの光や視点ではなく右からの光線や視線の向きが多い、ということである。その理由はよくわからない。
 二つ目は壁の塗り方の丹念さである。私はいつも背景や壁の塗り方に着目する。当たっている光や表面の微妙な配色などをどれだけ丹念に描こうとしているか、作品が気に入るが否かの判断基準にしている。
 この作品は黄色の服と赤みがかった黄色の食材、そして黄色みを使った壁の色、茶色の机という同系色の思い切った配色で冒険をしながら、落ち着いた静かな雰囲気を醸し出すという試みに思えた。



 三つ目の作品は、その1でも「海辺の網干し場」を取り上げたヴィゴ・ヨハンスンの「コーヒーを飲みながら」(1884、リーベ美術館)である。
 なんとも不思議な二人を描いている。はたして二人はコーヒーを飲みながら本当におしゃべりをしていたのだろうか、と疑いたくなる。視線も交わらず、表情からはまったく別のことを考えているとしか思えす、なんの接点も見いだせない。
 コーヒーカップも一つだけのように思える。向かって左の女性が、客である右側の女性にコーヒーを出したところとも思える。到底二人で楽しい会話をしたとは思えない。悩み事の相談なのだろうか。
 もともと二人に接点などなく、構図上、二人の人物を配置しただけ、という風にすら見える。しかしそれにしては高価といわれるカメオを二人の間の壁に配置し、高級な部屋のイメージを演出している。ちぐはぐさが私には目立つ。
 絵の解説では「落ち着いた色彩と室内に拡がる自然な光が、二人の心安い関係を示唆している」とあるが、私は二人の間の交わらない不協和音が響いているように見える。


カワヅザクラが開花

2020年02月18日 15時58分50秒 | 山行・旅行・散策

   

 ポカポカした昼過ぎ、横浜駅近くの旧東横線跡地の緑道に植えられたカワヅザクラがもう咲いていた。

 横浜駅西口の地下街は一斉休業日。人通りは少ない。駅前再開発の工事帯の傍の喫茶店で昼食。一時間ほどのんびりした。昨晩のお酒がようやく抜けた。再開発工事に携わる人たちの昼休みが終わったと思われる13時頃、再び我が家に向けて歩き出したときに見つけた。

 午前中も通ったのに気がつかなかった。どこを見て歩いていたのだろうか。


明日の予定

2020年02月17日 22時37分09秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 明日から月末までのほぼ3週間は退職者会のニュースの原稿作りに邁進予定。毎日その作業に集中し続けるわけではないので、当然コーヒータイムと息抜きはある。ただし最後の数日は息抜きできないくらいに集中しないと終わらない。

 隔月でめぐってくるこの仕事、やりがいはあるし、苦労のしがいはあるのだが、そろそろ同じことをこなすのが辛くなってきた。

 さて、明日は予定表は空白。編集作業の段取りで見通しを作ったら、少しは楽をさせてもらう予定。その時間に読書タイムを確保したい。23日(日)のバルセロナ展の見学ツアーを前にした勉強である。


くたびれたが楽しい一日

2020年02月17日 22時08分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 朝は8時45分に家を出て、9時半に組合の会館にたどり着いた。家を出てから最寄りの駅まで走り続けた。現役の頃は7時半過ぎに家を出て最寄り駅まで全力で走り、8時半前に職場についた。朝に最寄り駅まで全力疾走する体力は確かにあった。しかし今は情けないことに月に1回だけで疲労困憊である。

 9時半から16時まで昼食もほとんど取らずに組合の会館の中で目いっぱい動き続けた。16時15分から飲み会。17時半から二次会ということで、近くの居酒屋に繰り出した。年寄りの大きな声でお店に迷惑をかけたかも知れない。20時半に解散、ようやく家にたどり着いた。

 家を出てから13時間、体力的にはつらいものがあるが、ワイワイとみんなで飲む楽しさはなにものにも変えがたい。


眼鏡の具合の様子見

2020年02月16日 22時20分58秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 新しい眼鏡を掛けて、いろいろと様子見、と言い訳しながら、つい先ほどまで読書もせずにテレビを妻と見ていた。ドラマを1時間ほど。
 テレビドラマというのは、どうも苦手であるが、韓国ドラマというのはなかなか内容の緊張感が持続するようだ。日本のテレビドラマと比べてみるのも面白いかもしれないが、私はそれをするだけの気力はない。

 ドラマ・演劇というのは深入りしたくない。映画もしかり。

 同時に、目が疲れる。多分1時間が限度である。目がショボショボして筋を追うのもつらくなる。本日も45分を過ぎたあたりからショボショボしてきた。

 作りかけの明日の資料をチェックして、打ち出し完了。本日の業務はこれにて終了。

 雨はまだやまないが、雷注意報は解除になった。強風・波浪注意報はまだ解除になっていない。夜のウォーキングは断念。
 明日の朝までには雨はあがり、日中は晴れる見込み。


新しい眼鏡

2020年02月16日 18時05分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 新しい眼鏡が出来た。
 昨年10月10日の白内障手術から129日ぶりに取りあえず今の視力に合う眼鏡が出来上がった。18週間と3日、約4か月かかった。両目を一緒にしてしまえばよかったのだが、病院の都合、私の緑内障の状況等々の要因があったとはいえ、長かった。

 昨日までは、左目は古いレンズのままだったので、古い眼鏡を掛けると左目は焦点があわず、自然と右目だけで見ていた。それためにすぐに疲れるし、体が右に傾いたような感じもあったし、右目が顔から飛び出たかのように気分になっていた。
 新しい眼鏡を掛けるとすぐに慣れた。それでも一応ユックリ歩いて喫茶店で読書タイムののち、横浜駅の構内を歩いてバスターミナルまで。読書も違和感はなかった。歩いてみると、階段以外は特に違和感はなかった。階段は降りるときも登る時も階段の縁が湾曲して見えた。まっすぐのはずの階段の縁なので慌てて眼鏡をはずしてみた。もう一度掛け直したものの、見えかたに変化はなかった。今まではそのことはあまり認識はしていなかった。
 また遠くから急に近くに視線を移すと、ピントが合うまでに時間がかかる。これは以前から起きていた現象なので、慣れるまではやむを得ない。
 パソコンの画面の見え具合もいい。

 当面は慌てずにゆっくりと歩くことにしたい。夜も慣れるまではユックリ、そして裏道ではなく少しでも明るいバス通りを短時間だけ歩くことにした。

 これで当分は眼鏡のことでボヤくことはないと思う。ただし眼科で数週間後にもう一度検眼の上、眼鏡の処方箋を作ってもらった方が良いと言われている。まだまだ視力が少しずつ変化するはずとのこと。


雨は意外と小降り

2020年02月16日 11時35分29秒 | 天気と自然災害

 9時ごろから本降りになった。今は小降り、いったんは雨は上がるかもしれないが、次の広い雨の区域が相模湾から迫ってきている。レインアイよこはまは調子が良くないようだ。2~3分ごとに画面が更新されるはずなのだが、ところどころ抜けてしまう。メンテナンスが必要と思われる。
 横浜市域には雷・波浪注意報が出ている。

 眼鏡は昼食後に受け取る予定。帰宅後は読書、および明日の退職者会の幹事会に向けて資料の一部を作成予定。明日は朝から夕方まで会議の連続。多分夕方から飲み会予定。新型肺炎で宴会は控えるとは思えない。ただしワンコインの飲み会ではないので、近くのいつもの安い中華居酒屋に繰り出すことになりそう。


新型肺炎の対応

2020年02月15日 22時53分01秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 明日のは午前中は団地の中で作業を予定をしているが、雨がひどいらしい。中止の可能性もある。降水確率は80%と高い。午後には眼鏡が出来ているので、受取に出かける予定。午後の降水確率も50%と高いが早めに受け取りたい。本当は人の多い横浜駅はとりあえず避けたいとはいえ、眼鏡はどうしても必要である。

 さて素人の私の感想は結果論に聞こえるかもしれないが、水際対策と称してクルーズ船対応に終始してきた日本の新型肺炎の対応は何処がおかしかったのか、早急な検証が必要ではないか。またつい先日対策会議に専門家会議を設けたというが、あまりに遅すぎたのではないか。
 まず外国人は、検査で陰性の人はどんどん下船させ、空路を利用し、帰国の途につかせるべきだったのではないか。米国については関東周辺の基地から空路での帰国も可能であったはずだ。症状のある人は隔離病棟へ受け入れたり、病院船の活用も必要であった。船内に感染症対応の医療スタッフを常駐させる必要もあった。検査をスムーズに実施をすれば、船の乗員は最低限に減らし、病院船としての対応も必要であったのではないか。諸外国の政府が、日本政府に厳しいのは、このような苛立ちを各国が持っているからではないのだろうか。

 また当初の政府の説明では検査薬の数が少なかったとのことであったが、報道によると民間の対応を求めると検査薬は大量に整えられたと言われている。これも検証が必要であろうが、政府の対応に疑問が出ていることは確かである。

 私は現政権の災害も含め、危機管理対応におおいに疑問と批判、不信感を持っている。
 


「ハマスホイとデンマーク絵画」展 その2

2020年02月15日 22時17分28秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 「ハマスホイとデンマーク絵画」展の会場は、
1.日常礼賛――デンマーク絵画の黄金期
2.スケーイン派と北欧の光
3.19世紀末のデンマーク絵画――国際化と室内画の隆盛
4.ヴィルヘルム・ハマスホイ――首都の静寂の中で
という4つの部屋に分かれている。

 1.は19世紀以降、デンマークが近代国家として出発する過程で、市民階級の勃興とともに近代絵画が確立していく黎明期を扱っている。ちょうど日本が19世紀の半ば以降その近代化の歩みを本格化させるのと時代的には少しばかり先行はしているが、ほぼ同じ時期である。
 日本と同様に、国家の成立と近代絵画の歩みが同一であったようだ。その時期の絵画ではくレステン・クプゲという画家の作品に惹かれるものがあった。いづれもしずかな風景画であるが、構図的にもいろいろな試みをしているように思えた。



 この1934~35年の作品である「フレズレクスポー城の棟――湖と町、森を望む風景」は空が3分の2を占めている。手前の城の景に焦点が合い、太陽の光を反射して硬質な質感が美しい。中・遠景は輪郭がぼやけているが、描きたかったのはこの田園風景らしい。そしてオランダ絵画を思わせる広い空は丁寧に塗られている。実際のイメージどおりにはスキャナーは応えてくれないようで、遠近感や筆致が表現できないもどかしさがあった。オランダがカルヴィン派、デンマークはルター派のプロテスタントであるらしいが、オランダ絵画の影響もあるのだろうか。

 次のコーナーのスケーイン派というのははじめて聞いた。このコーナーは興味を惹く作品が多かった。
 図録には「画家たちは、独特の厳しい自然環境と、繰り広げられる漁師たちの日々の労働に魅せられた。・・国際的な芸術家コロニーが形成され、・・スケーイン特有の光の描写と芸術家たち相互の交流へと移っていく。・・フランス印象派をはじめとする外国の影響を取り入れた画面には、大胆な筆致で明るい絵具が重ねられた。画家たちは理論的、美学的裏付けを印象派と共有していたわけではないが、保守的なコペンハーゲンの画壇にとって、彼らの作品は革新的なものであり、人々の目には、新しい時代の幕開けを告げるものとして映った。」と紹介されている。



 中でも私が一番惹かれたのは、「戸口で縫物をする少女」(アナ・アンガ、1879-84、スケ-イン美術館)。構図的には左上の明るい窓からの光、青い服、白い編み物の先に画像では見にくいが実物ではもう少し鮮明な緑の草という左から右下への直線的な流れと、スカートの裾の赤の円が安定感をもたらしている。それために実際よりは腰から膝までの脚を長めに描いて、スカートの茶色のボリュームを増している。これに右上の青白い窓枠と白い地面がバランスを取って配置されている。私でもわかる色彩の配置に基づく構図が落ち着いた感じを出している。フェルメールの作品のようでもあり、セザンヌの晩年の作品を先取りしているのかと錯覚したりもした。静かな時間が愛おしい作品である。



 次に私の目を惹いたのがヴィゴ・ヨハンスンの「海辺の網干し場」(1876、スケ-イン美術館)。日本の昔の漁村風景と酷似していると思うと同時に、構図としても親近感が湧いた。また多くの画家が労働に携わる人間を描いているのに比べ、人の影はない。しかし、うまく説明が出来ないのだけれど、人の生業(なりわい)の「匂い」が強く伝わってくる。あまりに感覚的すぎる感想であるが、風景を人間とのかかわりでとらえている、と感じた。
 たとえば子どもや猫やカラスをこの作品のどこかに描きこんでいたらどうだろう。いろいろと工夫しても実につまらない絵になる。それらがなくとも充分に人の匂いが漂ってくるのである。風景が生きている、というのはこういうことなのだろうか。



 こちらの作品は、ミケール・アンガの「ボートを漕ぎ出す漁師たち」(1881、スケ-イン美術館)。ソヴィエト・ロシア成立前後の一時期の作品を思い出させてくれるような作品に思えた。劇的な効果を狙ったロマン主義的な作品である。しかし人びとの動きが手前の二人の人物(黄色と青の上着)の造形以外は静的で、どこかちぐはぐを感じる。
 この作品の解説では「西洋の伝統では、文章と同じように絵画も左から右に見るのが一般的であった。ここでは通常と反対の流れを生み出すことで、事態の厳しさと、それに挑む漁師たちの英雄性が強められている」と記されている。
 実は他の作品も含めて、この傾向は著しい。特に室内の光がフェルメールのように左から右に差す作品よりも、右から左に差している作品など、右から左への指向性をもつ作品が多いことが印象に残った。



 この作品はピーザ・スィヴェリーン・クロイアの「漁網を繕うクリストファ」(1886、スケ-イン美術館)。こちらも人物は左向きで、光は右から左へ流れている。見る人の視線を右から左へ誘導している。
 まず煙草の煙が青く塗られ目につく。この煙の漂いかたと色合いが私の目に焼き付いた。
 窓枠の下の緑の植物、赤いマフラー、青い煙草の煙、白い漁網が連なっている。画面の中央を右上の明るい窓からの陽射しがさしている。漁網の白と白っぽい両手が斜めに右から下に円弧になってその陽射しを受けている。どちらも左から右に横に視線が動いている。
 さらに頭から膝までの半円形と、漁網から手への円弧、背中の円弧などいくつかの丸い曲線の交差も美しい。
 こちらもずいぶんと計算された構図と色彩配置である。労働が祈りにも似た静謐な時間である。



 この作品は同じクロイアの「スケーイン南海岸の夏の夕べ、アナ・アンガとマリーイ・クロイア」(1893、ヒアシュブロングコレクション)。手前に大きく描かれた砂浜と足跡がまず印象的。同時に波打ち際のカーフが左から右に張り出してから左へまがり、水平線と合体するする曲線が広々とした風景を強調している。白い人物像が実に巧みな位置に配されている。



 一方で私は同時期に描かれたノルウェーの画家ムンクの「メランコリー/黄色いボート」(1892)を思い出した。海の描き方と海の青が似ている。ひょっとしてムンクの作品には描かれているメランコリーな人物は、省略されたのかもしれない。
 静かで長閑な海辺の作品にも拘わらず、どこかで近代的な自己の葛藤が隠れているように感じられた。

その3へ

 


「バルセロナ展」の予習

2020年02月15日 11時19分03秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 23日(日)にバルセロナ展を見に行く。中村宏美氏の解説付きの鑑賞会である。それまでにスペインの近代史、カタロニアの歴史などを概略でも頭の中で整理しておきたいと思い、急ぎで手に入りやすいものをいくつか用意した。

・「情熱でたどるスペイン史」(池上俊一、岩波ジュニア新書)
・「物語スペイン史 海洋帝国の黄金時代」(岩根圀和、中公新書)
・「物語カタルーニャの歴史 知られざる地中海帝国の興亡 増補版」(田澤耕、中公新書)

 「ゴヤⅣ」も関連するのだが、取りあえずこちらのほうを優先。
 ただし拡大鏡がないと読み切れないので、苦労している。明日16日には新しい眼鏡が出来るので、それまでの我慢である。ほとんど拾い読みのように読んでいる。

 本当は、ジョージ・オーウェルの「カタロニア賛歌」を再読したいと思っているが、1970年頃に古書店で購入した本は10年以上前に古書店に売ってしまった。たしか筑摩書房版だったと思うが、記憶はあいまい。
 現在はちくま学芸文庫と岩波文庫に収録されているが、品切れらしい。古書店を探すか、図書館で借りるかしなくてはいけない。そこまでの時間がない。
 この「カタロニア賛歌」はスペイン内戦時の人民戦線内のスターリン主義・コミンテルン指導の愚かさを描いて多くの読者を得ていた。最初に記載しておきたかったが‥。