Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日は平田オリザ氏の講演

2020年02月14日 23時25分01秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 明日は13時からみなとみらい地区で講座。講師は平田オリザ氏で演題は「社会における芸術の役割――兵庫県豊岡市の挑戦」。

 5回の連続講座の最終回。第3回・第4回と内容も豊富で、重みのある内容だったので、災後も期待をしたい。平田オリザ氏は5人の講師の中ではただ一人名前を知っている。だが氏の演劇を見たこともないし、どのような発言をこれまでされてきたかということもまったく知らない。
 そもそも演劇というものを私は見たことはない。縁がなかった。いわゆる食わず嫌いである。今回の講演で興味が湧くかもしれない。
 


マスクを辛うじて購入

2020年02月14日 21時10分34秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 ようやく本日から「ハマスホイとデンマーク絵画」展の2回目以降について記述を始めた。あくまでも素人の感想である。うまくまとめられるか、自信はまったくないが、何とかしたい。明日にでもアップ出来ればいいのだが。

 本日、近くの駅の前の百円ショップに立ち寄ったところ、たまたまマスクを箱から出して販売を始めた。一人一箱ということで妻と私で一箱ずつ購入。会計を済ませてから置いてあった棚を除いたらもう入っていた大きな箱は空っぽ。レジに人がたくさん並んでいた。しかし二箱で40枚。これで当分過ごさないといけない。
 さらに近くのドラッグストアに出向いて、台所用の消毒用アルコールを見つけて二つ購入。手洗い用としても使えるものらしい。手指の消毒用のアルコールはどこも在庫はないらしいが、調理器具の消毒用のアルコールは置いてあることに気がついた。ただし、あまりたくさんは置いてなかった。

 こののち、私は書店に寄り、喫茶店で若干の読書タイムの後は歩いて帰宅。妻はスーパーで買い物をしてからバスで帰宅。行きは一緒であっても、帰路は夫婦別々。いつものパターンである。
 


花粉症対策がままならない

2020年02月14日 10時36分01秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は16℃まで気温が上がるという予報である。昨日よりは1℃低いがそれでも暖かすぎる。ところが朝起きてみると西の空はどんよりとして、空が低い。そして寒々しい。東の空は少し雲が薄くときどき弱々しい日が射す。昨日のように暖かくなるのか、心もとない。

 本日は夫婦そろって休養日。横浜駅界隈まで出かけるのは遠慮して、近くの別のターミナル駅の大型スーパーに出かけてみることにした。

 我が家に数年前に買い置きしていたマスクがそろそろなくなってきた。キッチンの消毒用アルコールもなくなりかけている。マスクも手指の消毒用のアルコールもドラッグストアでは品切れ状態である。
 どこかで手に入れなければならない。一カ月前はまだ我が家では購入する必要のない状況だったので、油断をしてしまった。これからの時期、妻は花粉対策が必要である。


判断に迷ったが・・

2020年02月13日 22時31分09秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は、ブタペスト展とソール・ライター展、どちらにするか悩んだが、永田町駅から六本木駅の新国立美術館までの地下鉄経路が思い浮かばなかった。永田町駅からそのまま半蔵門線で渋谷駅に出てBunkamura ザ・ミュージアムに向かうほうが楽に思えた。

 しかし半蔵門線で永田町駅の次の青山一丁目駅で大江戸線に乗り換えれば、六本木駅は一つ目であった。帰りも東横線に乗り入れている日比谷線に乗ればそのまま横浜駅まで直行であった。
 横浜から六本木駅までの経路はすぐに思いつくのに、ちょっと違うとオロオロしてしまう。やはり乗り慣れていないと判断に迷ってしまう。

 ただしソール・ライター展ではいい作品の数々を見ることが出来たので、満足である。個人の作品を集めた展覧会のほうが、わたしには向いている。

 本日は朝から少々草臥れている。何となく体が重い。早めに就寝したい。明日はユックリと過ごしたい。


「永遠のソール・ライター」展

2020年02月13日 19時58分17秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 参議院議員会館での屋内集会終了後、渋谷駅で降りてBunkamura ザ・ミュージアムで開催されている「ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター」展を見てきた。何とも仰々しい謳い文句であることか、とあきれながらも楽しんできた。

  

 チラシにも記され、ホームページにも掲載されている文章は以下のもの。

2017年、Bunkamura ザ・ミュージアムで日本初の回顧展を開催し、大きな話題を呼んだ写真家ソール・ライター(1923-2013)。 1950年代からニューヨークで第一線のファッション写真家として活躍し、1980年代に商業写真から退いた後、世間から突如姿を消しました。ほとんど知られていなかった写真家の展覧会がこれほどの反響を巻き起こした背景には、画家として出発し、天性の色彩感覚によって「カラー写真のパイオニア」と呼ばれた個性と才能がありました。約8万点のカラー写真をはじめとする作品の大半を整理することなく世を去った写真家の「発掘作業」は今もなお、現在進行形で続けられています。
本展では、ニューヨークの膨大なアーカイブから、世界初公開作品を含むモノクロ・カラー写真、カラースライド等の作品をはじめ、豊富な作品資料やデジタル技術を駆使して、知られざる一面を紐解きながらソール・ライターの更なる魅力をご紹介します。

 会場を2回ほどまわってきた。私にはとても好ましい写真である。ちょうどハマスホイ展を見たばかりなので、つい比較しながら見て回った。比較すること自体があまり意味もないのだが、面白いことに気がついた。
 ハマスホイの作品は、人は描かれているが、人間は非在である。人の生活の痕跡を丁寧に消し去っている。ソール・ライターの写真作品からはまったく逆の印象を受けた。極端なことをいうと人が映っていない作品からも人の気配が濃厚に立ち上ってくる。
 ただしそれは生活感というものとは違う。また夭逝した妹や生涯ののパートナーであった女性を除いて、撮影者と被写体の関係は希薄である。作品に登場する都会に住む人間同士の関係も希薄であり、互いに没交渉の人の集団である。だが、確かに都会での人の息吹が伝わってくる。都会で生きている人間が、そのまま写っている。そして撮影者独自の構図や色彩感覚の中で息づいている。

 ボケ味を最大限生かし、雪や雨を独特の視点で多用し、窓枠効果を駆使し、そして狙った被写体は小さながら明確に描いている。焦点にする対象人物や物よりもボケた周囲を大胆に大きく写し、より効果を高めている。そして思い入れを拒否したようなごくありふれた題名が普遍性を前面に押し出している。
 「喧騒の中の一瞬の静寂」「群衆の中の一瞬の静止」「都会の中の一瞬の自己確認」などという言葉が湧いてきた。
 「都会」は被写体にとっても撮影者にとっても特に疎外物でも対立物でもない。息苦しさをもたらすものでもないようだ。「都会」だけでなく社会総体からの疎外感を感じられない。「都会」そのものを所与のものとして受け入れている。
 戦後の社会との格闘ばかりが頭と体の中で渦巻く私などからするとちょっと不思議な気もするが、決して違和感はない。

 赤いカーテン 1956

 帽子 1960


 最近は私もこのように周囲を見ることが出来るようになったと、思うことが多くなってきた。そういった意味では、いい作品を見ることが出来たと思う。私自身が老いたとか、社会との緊張を喪ったとか、言われることもあるが、私は違うと思っている。ただし反論はしていない。

 こんなことを考えつつ会場をまわり、帰途の電車の中でそれをとりとめもなく反芻していた。

   


本日は永田町まで

2020年02月13日 07時18分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日はいつも起きる時間より30分も前に家を出て、永田町駅まで。参議院議員会館での退職者連合の院内集会に参加することになっている。久しぶりの国会行動。退職者連合の社会保障関連の政府交渉の経過報告である。

 朝から雨の予報であった。しかし今のところ厚い雲に覆われていても降ってはいない。風は生暖かく、気持ち悪い。昨晩は風が強く、もう春一番かと思わせた。集会が終わるころには雲も晴れる予報になっている。

 最高気温は16℃の予想でかなり高い。昨日も162℃を記録した。4月上旬の気温であったとのことである。ダウンの上着もセーターもいらない。しかし何を着て行ったらいいのだろう。着るものに悩む季節である。

 せっかく東京までいくので、どこか美術展に行きたい。候補は国立新美術館の「ブダペスト―ヨーロッパとハンガリーの美術400年」展と、Bunkamura ザ・ミュージアムで開催している「永遠のソール・ライター」の二つ。両方は無理なので、どちらか。


二つの地震

2020年02月12日 20時50分16秒 | 天気と自然災害

 先ほど北海道内陸と福島県沖で続けて別の二つの地震が起きた。横浜で感じたのは福島県沖の地震。私のところは震度1であったが、ずしんと一回だけ揺れたように感じた。

 テレビのテロップを理解するのに時間がかった。二つの地震についてのテロップが同時に流れているので、よくわからなかった。規模の割に揺れた範囲が広いので、不思議であった。
 二つの地震がほぼ同時に起きたのではないか、と考えると理解できる、と思ったのがテロップが流れて5分以上経過してからだった。
 以下、気象庁の発表である。震度3以下の地域は省略。

★12日19時36分ころ、地震がありました。
震源地は、胆振地方中東部(北緯42.7度、東経142.0度)で、震源の深さは約40km、マグニチュードは4.4と推定されます。この地震による津波の心配はありません。

★12日19時37分ころ、地震がありました。
震源地は、福島県沖(北緯37.3度、東経141.4度)で、震源の深さは約80km、マグニチュードは5.5と推定されます。この地震による津波の心配はありません。
宮城県  震度4  名取市 岩沼市 蔵王町 山元町
福島県  震度4  いわき市平 白河市 相馬市 二本松市 田村市 南相馬市
          福島伊達市 本宮市 国見町 古殿町 福島広野町 楢葉町
          大熊町 双葉町 浪江町 新地町 飯舘村
茨城県  震度4  日立市

 二つの地震は地域的にも離れており、深さも違い、関連はないと私は思う。しかしもしも震度が5弱以上のものが今回のように近くで二つ同時に発生すると、報道も混乱しそうである。今回は私もとっさにテレビのテロップがおかしいのではないか、と判断してしまった。とっさの判断に間違いが入り込む余地がある。怖いものだと思った。


新型肺炎について思う

2020年02月12日 18時33分01秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 医者でも医療従事者でも専門家でもない私が、印象だけで綴るのはいけないと思うが、新型肺炎の関連でクルーズ船に多くの乗客が隔離されている事態について、分からないことがたくさんある。

 感染者が乗船客と乗員に拡大している。当初は19日までの隔離ということで、感染者が出なければ、それで収束であったと思う。しかし少しずつ拡大しているということは、潜在的な感染者が発症したり、検査で見つからなかったかたが発見されただけなのだろうか。
 もしも二次感染・三次感染で発症したのなら、その時点からさらに2週間近くの隔離が必要ということになるのではないか。そう考えるのは私だけだろうか。しかも発症した検疫官は船内のでの業務以降、通常業務にもついていたという。検疫体制についても再考が必要である。

 さらに船内での感染の可能性について、調査をしたのであろうか。例えば水のタンク、換気装置、食堂などの調理施設‥。通常の感染症の報道ならば、それらの結果についても発表される。人から人への感染が確認されたばかりの新しい病気である。どんな感染の仕方があるのか、決めつけずにあらゆる可能性を追求しなくては、対応は出来ないと思う。

 しかし報道を見ても聞いても、感染者が出た、ということと、船内の隔離者の不安な様子や、船外からの激励などの事例が目立つ。それらの報道も大切で必要なことであるが、疫学的・医学的に現在の政府の医療対応の検証について私は聞いたことがない。
 このままでは船内にいる全員が発症するまで隔離を続けてしまうような事態にならないか。見通しが立たないのでは不安は募るばかり。隔離されているかたがたの不安はさらに募るばかりであろう。水際で食い止める、という大義名分で乗船者を閉じ込めるということだけが目的になっていないか。

 三千数百名の数の検査を一時にするというのは課題がおおいのだろうが、全員検査の方向が見えないと終わりのない隔離になってしまうのではないか、と思ってしまう。
 国の対応、何かが間違っていないか、見落としや対応の不備はないのだろうか。是非とも検証してもらいたいものである。報道の役割というのはそこにあるのではないか。
 


血圧の推移

2020年02月12日 11時02分51秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 これよりいつもの内科へ。降圧剤の薬などが無くなってきたので処方してもらう予定。いつも一カ月分を処方してもらう。少しずつためて一週間分くらいは余分にストックしている。災害時などのために予備を蓄えておくことは悪くないと思われる。こんどのクルーズ船の状況を見ていると2週間分くらいは余分に所持していた方が安心なのだろうか。

 約一週間分血圧の測定値を30分ほどかけて入力。溜めてしまうと大変。せめて1週間分はその都度入力しておいた方が楽である。私の手書きの読みにくい文字では医者に失礼かと思い、エクセルで処理をしている。
 冬ということが原因なのか、昨年末から高めに推移している。寝る前の服用だったのが、朝も服用するようになった。寝る前と起床後、薬の服用前に測定している。

 ときどき最高・最低とも高くなる。飲酒とは関係がないようだ。休肝日の翌日に高くなることもある。2日ほど高い日が続いて、また4日くらいは正常値に戻る。何が原因なのであろうか。夏になったら少しは低くなり、薬の服用も減らせるのだろうか。

 


「旅芸人の手帖」(宮崎進)から

2020年02月11日 21時07分20秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 以前にも記載したかもしれないが、再び。
 宮崎進の画文集「旅芸人の手帖」のⅢ「魂の果て 墨東と北国」に次の絵と文章が掲載されている。



 絵の題は「石狩」、1958年の作品。文章は、詩のようで、述懐のようで、生と死を見続けた画家のつぶやきのような文章は私の心をいつもゆさぶる。
 私はどうしても先行世代の戦争体験、戦後体験に引きづられてしまう。どうしてそうなったのかはわからない。生と死をくぐりぬけてきた研ぎ澄まされた刃のような煌めきに惹かれているのだと思うことにしている。

地表に降り注ぐ陽の光と風だけが通り過ぎて行く。
この果てにいったい何があるのだろうか。
なぜだかわからないが、私はただただ渺々(びょうびょう)として
             何ひとつない北国のこの風景が好きだ。
地の果てまで大地が広がり、空がある。
黒い鳥が群れ、小石や枯れ草の続く荒れ地は道もなく、寄り添う家並や、風雪に歪んだ針のような本が、大地に張り付いて生きる人間の営みを思わせた。
すべてを拒み、引き裂くような風景。
この地の果てに何があるのだろうか。
知る由もないが、何かが私を前に押しやる、
そうしないではおれない私があつた。
積丹、石狩、網走、納沙布、竜飛、恐山、尻屋崎と、
その頃、冬が来ると、私はたびたび北国に出かけた。
肌を裂く吹雪の中を、
ある時は、寄る辺ない旅人のようにさまよい歩いた。
流氷の岸辺に、荒野にそよぐ草や木に、飛んでいく鳥にも、
在る物が宿す命の様は、眼に焼き付いてイメージを駆りたてた。

  この本の最期に宮崎進は次のように記している。
「三十歳にも手の届く年に(シベリヤ抑留から)引き揚げてきた私は、何もかも失って呆然として、家族を前にどうすればよいのか、考えあぐねていた。そこには大きく立ちはだかる問題もあったが、その頃の私には何より、いかにして失った時間を取り戻すか、何か描かずにおれない自分があって、自分を託すような主題を求めていたのである。そして何かに憑かれるように冬の裏日本(ママ)、東北、北海道の各地を歩き回った。私が大道芸人やサーカスを描いたのは一九六〇年代から七〇年代にかけてで、その旅の出会いにはじまる。‥世の片隅で、自分のすべてをかけて生きる、いわば農耕社会からはみ出したといわれる彼らの寄る辺ない生き様に、私は私の中の漂泊の思いを重ねようとしていたように思う。」

 おこがましいようだが、私にとってもどこか原点のような文章である。

      


 


「国境」をなくす

2020年02月11日 18時43分16秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 国境なんて・・

国境なんてないにこしたことはない、なくしたい
国境なんてないほうが「戦」はおきない
人が作った国境なんてものは人の力でなくせる
だれもが心のどこかで思っていた

そんな時代が十数年間続いた ある
〇年〇月〇日の凍てる雪の日の早朝
人間の観念の作り出したものは
簡単にはなくせないものだと
冷たい虹とダイヤモンドダストの咆哮のもと
一瞬で思い知らされた

しかし、それでも
人が作ったものは人の力でなくさなくてはいけない と
あの一瞬から20年経たいまも
黒い汚泥とアスファルトの塵にまみれながら
もがきながら生きている
生き恥とはおもわない
それを願いながら、生死の境を
    なんの躊躇もなく超えるのも悪くない


 この詩のような述懐は、今から30年ほども前に目にした。勤めてから知り合った友人Eがノートに書きなぐって、フイッと生死の境を軽々と超えてしまった。半世紀前の時代の空気をどこかで一緒に吸っていた先輩であった。

 人は理不尽な死を強いられそうになった時、何かの意志で突出して社会と軋轢を生じ押し潰されそうになった時、視界には何が映るのだろうか。どんなことを思うのだろうか。文学や詩ではさまざまに語られている。明るい太陽光であったり、虹であったり、空の蒼や海の青であったりと自然の情景が駆けめぐると表現するものも多い。
 そして生き延びたとしても、その後の生は緊張の糸が切れたように、砂を噛むような日々であったのであろう。
 作者はまさにそのことを書いている。追憶としてその情景が脳裏に残っているのだろう。

 生と死を飛び越える一線をどんなに拡大し続けても、生と死の断層は画然としている。「遷移」というものが想定されない。またそう考えるしかない。
 生と死は、一瞬の相転移であるらしい。水から氷への相転移が常に一瞬であるように。人は多くの場合、この一瞬がある時間の長さを持っているように思いたいのだと思う。そこに「宗教」というものが入り込んで体系化しようとする。信じ込ませようとする。一瞬の相転移が人間の観念によっていつの間にか一挙に「永遠」の長さに転換する。

 そんな「永遠」を拒否をして、人は砂を噛んで生きている。いつ一線を超えてしまうか、自分でもわからないまま、トボトボと歩いている。


「旅芸人の手帖」(宮崎進)

2020年02月11日 13時44分21秒 | 読書

 午前中は、「ハマスホイとデンマーク絵画」展で、ハマスホイ以外の画家の気になった作品、惹かれた作品を図録からスキャナーでパソコンに取り込んでみた。
 さらに図録に掲載している論説「19世紀デンマーク美術――自然の忠実な観察から詩情あふれる象徴主義へ」(ピーダ・ナアゴー=ラースン(デンマーク国立美術館学芸課長))、「ヴィルヘルム・ハマスホイと19世紀末コペンハーゲンの室内画」(萬屋健司(山口県立美術館学芸員))を読んだ。
 論説は、拡大鏡を使って休み休みしてやっと読了。

   

 これよりいつものとおり付近をウォーキング&コーヒータイム。喫茶店では何を読むか、難しい。活字の大きい本は大型本になり、リュックで持ち歩くのはつらい。文庫本では活字が小さくて、最近は持ち歩いてもほとんど読めない。
 喫茶店で拡大鏡を取り出すのは少々恥ずかしい。文庫本でも活字の大きいのはあるが、あまり好みではない時代小説が多い。
 百円ショップで購入した+1.0の老眼鏡では度が強すぎる上に、左右同じ度数なので合わない。かえって目がまわる。
 冊数が半分になった本棚を探して「旅芸人の手帖」(宮崎進)を見つけた。これはいただいた貴重な本。これならば50センチくらいの距離でも十分に読める活字の大きさである。再読であるが、宮崎進の初期の作品を味わいながら充分に楽しめる。


高見順「死の淵より」から

2020年02月10日 23時21分41秒 | 俳句・短歌・詩等関連

  生と死の境には

生と死の境には
なにがあるのだろう
たとえば国と国の境は
戦争中にタイとビルマの国境の
ジャングルを越した時に見たけれど
そこには別になにもなかった
境界線などひいてなかった
赤道直下の海を通った時も
標識のごとき特別なものは見られなかった
否 そこには美しい濃紺の海があった
泰緬国境には美しい雲があった
スコールのあとその空には美しい虹がかかった
生死の境にも美しい虹のごときものがかかっているではないか
たとえ私の周囲が
そして私自身が
荒れはてたジャングルだとしても

 ふと、今朝起きぬけにこの詩が頭に浮かんだ。あわてて詩集を紐解いたら、最後の3行が記憶になかった。この最後の3行、読み返してみてよくわからなかった。まだわからない。分かるまでまた、頭の片隅に記憶しておくしかない。


夜のウォーキングは・・・・

2020年02月10日 19時36分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 パスポートセンターで更新の申請を提出、20日に出来上がるらしい。申請はしたもののこれから海外に旅行に出かける予定はないし、数年後にそれだけの気力が湧いてくる自信もない。しかし取りあえず更新しをしてみた。更新は2回目であった。顔写真が毎回見るも無惨な顔になっている。それが私の顔なのであるが、とても見るに堪えない。見たくない顔である。他人から自分がこのように見られている、ということが到底納得できないのだが、もうあきらめの境地である。

 いったん帰宅後に、別の所用のために横浜駅まで一人で往復歩いた。眼鏡は店に預けてあるので、眼鏡なしで歩くのに不安を感じた。手術後、両眼で0.6の視力である。昼間は特になくともいいのだが、そうはいっても、まったく手に持っていないで歩くとなると不安になる。
 眼鏡を掛けなくとも持っているだけで一応安心感があった。

 しかし夜のウォーキングは避けるか、できるだけ短時間にした方が良いようである。眼鏡を掛けずに深夜に出歩くのは怖い。眼鏡が出来るまでは、夜は団地の中のウォーキングにするか、妻に同行してもらうか、どちらかであろう。妻は間違いなく拒否する。ということでできるだけ昼間のうちに目標の歩数を達成した方が無難である。


宵っ張り・朝寝坊

2020年02月10日 08時39分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 二人で午前中に出かけることはめったにないのに、本日は朝から夫婦ででかけることになり、あたふた。当初はパスポートの更新の申請に午後から出かける予定であった。昨晩親の家に家電製品の配送時間が急に繰り上がりとなったために、午前中に申請に出かけなければならなくなった。

 歳を取ると早起きになる、というが我が家は宵っ張り・朝寝坊の家である。親もまた同じである。私の団地でも朝5時前から団地の中を歩いているお年寄りもいる。
 日の出前から起き出して日の出とともに活動を活動するのが、人間の本来の姿である、と昔の仲間にカツを入れられたことがあるが、わたしにはどうしても実行に移すことが出来なかった。十代の頃から夜更かしばかりしていた。

 現在、8時くらにいは起きている。これで定着しており、これ以上遅くまで寝ていることはないので、歯止めにはなっている。
 もっとも深酒をした日などは10時まで寝ていることは月に2回くらいはある。

 学生時代、誰も起こしてくれる人もないので、夕方まで寝ていることも多かった。目が覚めているのに、煎餅布団から抜け出せなかった。それに比べたら現在は立派なものである、と自画自賛している。

 洗濯も終わりに近づいた。そろそろ出かける用意を始めないと叱られる。